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gentle avenger の冒険

キュウレンジャーの感想を心の話を軸に書いてます!セイ!ザ!チェンジ!!!!

キュウレンジャー第11話「宇宙を救う3つのキュータマ」感想 ードン・アルマゲの正体再考ー

ちなみにラッキーが最初っからあのキャラじゃなくて、苦しみの中からあのキャラを獲得した…みたいな過去があったとしたら、私はもう胸が熱くなりすぎてスーパーノヴァ死する。

キュウレンジャー第6話感想 +α ールールは卑怯さを引き出すー - gentle avenger の冒険

 

スーパーノヴァ死ました。

ソウルがバーニングしてスターダストになりました。バーニングゾンビ三十六です。

 

第11話を見た私の魂がすすり泣くのです。折れたラッキーの心を、ラッキーの過去の絶望を思うと、我知らず涙が出てくるのです。

ラッキー、お前が乗り越えてきた絶望とはなんだ!!!!!!お前が彷徨った絶望はどんな景色だった??????

ラッキー、お前は絶望の中から立ち上がったのか!!!!!!お前は、絶望の中からあのダイヤモンドのような心を生み出したというのか!!!!!!!!

ラッキー、私の半身よ。 お前の絶望の深さを、お前の勇気の尊さを、私は知っている!!!!!!

 

助けてくれラッキー。この胸の痛みは、お前がその絶望を、その挫折を乗り越えることでしか治まらない。

もう一度、立ち上がってくれラッキー!!!!!!!!!!!!!!

 

ラッキーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

作品に魂を掴まれる

私のこの感情は一体なんなんでしょうか。

キャラクターに惚れるとか、そういうレベルの話ではないのです。

 

そして、思い出しました。過去にこんな気持ちになった作品がほかにもあったことを。

自分の魂を掴まれた、と感じた作品が過去にあったことを思い出したのです。

 

かぐや姫の物語』です。

 

かぐや姫の物語』は、見ていて気が狂ってしまうのではないかというくらい魂を掴まれた。作品が掻き立てる感情から逃げ出したいのに、目を離すことができなかった。おそらく、二度は見れない作品です。

 

そして、今また私は『キュウレンジャー』に魂を掴まれている。私は、ラッキーという存在に魂が共鳴するのを止められないのですセイザチェンジ!!!!!!!!!!! 

 

キュウレンジャーの謎を再考する

前置きが長くなりましたが、今回はキュウレンジャーという物語における重大な秘密(ラッキーの過去)が明かされた回です。

今回明かされた秘密を踏まえて、過去に考察したキュウレンジャーの謎に、もう少し迫ってみたいと思います。

 

キュウレンジャーに横たわる2つの大きな謎について考察したエントリはこちら。読んでない人は先に読んでね!面白いよ!多分!

 

gentle-avenger.hatenablog.com

 

 

ドン・アルマゲの正体とは?再考

  

ドン・アルマゲとラッキーに血縁関係(若しくは分身)があって…複雑な間柄で…敵には敵の正義があって…敵と思ってたら自分(肉親)で…みたいなのをキュウレンジャーでやるのか?って考えたら「しねぇだろ」としか思えませんよ私だって。

キュウレンジャー第8話「司令官ショウ・ロンポーの秘密」感想 ーキュウレンジャーの語り手は信頼できるか?ー - gentle avenger の冒険

 

キュウレンジャーに横たわる謎を考察したエントリで、上記のように私は書きました。

 

撤回します。


他者否定と自己防衛が充満するこの時代の子供番組に、ラッキーという主人公を据えた人達が、親と子の確執を描かないわけがない。

根拠はありませんが、今の私はそう確信しています。

 

今、私は根拠なく断言します。

ドン・アルマゲ = ラッキーパパ である!!!!!と!!!!!!!!!

 

そして、以下の文章、これも撤回します。

 

多分、ラッキー は 嘘ついてないと思うんですよ。ドン・アルマゲのことを「チョンマゲ!?」って言ってたのも、素だと思います。なぜって、ラッキーは嘘をつける男じゃないガル!!!!!

キュウレンジャー第8話「司令官ショウ・ロンポーの秘密」感想 ーキュウレンジャーの語り手は信頼できるか?ー - gentle avenger の冒険

 

今回の描写で、ラッキーが嘘をついている可能性も大いに出てきました。

父であるドン・アルマゲを討つために宇宙を旅していたラッキーが、ジャークマター(ドン・アルマゲ)を倒そうとしているキュウレンジャーと出会い*1、素性を隠したまま参戦した…という物語も十分に成立可能な圏内に入ってきたのです。

 

 バランスくん300歳は伏線か

しかし、ラッキーはどう見ても20代。*2

ドン・アルマゲ=ラッキーパパと仮定して、燃え盛る宮殿で独り泣く幼い日のラッキーが6歳だとしたら、ドン・アルマゲ誕生(?)は14年前となります。

14年でジャークマター結成、巨大組織化、全宇宙掌握…。いくらなんでもドン・アルマゲ有能すぎ問題。いくらなんでもドン・アルマゲ有能すぎ問題なのであります。

 

ガルの一族が全滅させられた時期や、スティンガーの兄であるスコルピオが闇落ちした時期、カジキ座系がジャークマターの支配下に置かれた時期、ショウさんがリュウバイオレットとして戦っていた時期…等々を考え合わせると、なんとなく、ドン・アルマゲのキャリアスタートが14年前というのは無理があるのです。

 

しかし、我々には既に示されていたのです、その無理を可能にする設定が。

 

それは「バランスくん300さい」です。

第7話「誕生日をとりもどせ!」は、バランス300歳の誕生日の話でした。

見た目やしゃべり方から考えれば、バランスの年齢はチキュウ人換算で20代前半といったところでしょう。 

 

そう…。キュウレンジャーのメンバーは小太郎以外全員宇宙人なのです。

ラッキーの見た目が20歳だからといって、生きてる年数が20年とは限らないのです。

バランスの300歳という設定は、キュウレンジャーのメンバーの見た目の年齢と、実際に生きている年数が違うことの伏線なのではないでしょうか。

 

信頼できない語り手による時系列

テレビの前の我々は、今までに示されてきた過去のシーンをなんとなく、それぞれのキャラクターの見た目の年齢に沿って時系列に並べてきたはずです。

 

スパーダの故郷がジャークマターの手に落ちたのは25年前くらいだろう。(子供の頃には既にジャークマターの支配下バリバリっぽかったし、スパーダの見た目的になんとなく。)

ショウさんがリュウバイオレットとして奮闘して、リベリオンが壊滅寸前になったのは、20年前くらいだろう。(壊滅寸前のリベリオンを立て直してキュウレンジャーを探す時間を考えると。+ショウさんの見た目的になんとなく。)

スコルピオ闇落ちは10年前くらいだろう。(スティンガーの見た目的になんとなく)

ガルの一族が根絶やしにされたのは、3~10年前だろう。(ガルの見た目的になんとなく)

BN団結成は3~8年前だろう。(バランスやナーガの見た目的になんとなく)

 

細かい数字は人によって違うでしょうが、出来事の時系列を想像する時に、キャラクターの見た目が大きな判断材料になっているという点は皆同じなのではないでしょうか。

 

しかし、キュウレンジャーに出てくるキャラクターの歳の取り方は、おそらく一律ではないのです。

そして、その事実は「バランスくん、300歳のおたんじょうびおめでとう!(見た目若いのにね!)」という形であっけらかんと明かされている。

 

私たちが、キャラクターの見た目に引っ張られてなんとなく想像した過去の出来事の時系列が根底から覆る可能性を秘めた情報(バランスくん300さい)があっけらかんと、笑い話のように明かされているのです。

 

やはり…キュウレンジャーの語り手は信頼できないのでは…?という考えが頭をよぎります。

キュウレンジャーの語り手は、テレビの前の我々に誤った時系列を想像させることで、巧妙に、ラッキーの素性、ラッキーとドン・アルマゲの繋がりを不可視化している。

 

…のかもしれない!!!!!!!!!

(おしまい)

 

 

第11話は物語の重大な秘密が明かされると同時に、「“力に溺れる”とは?」という小テーマが語られた回でもありました。

「“力に溺れる”とはどういうことか?」「“力”とは何か?」「“力”の持つ抗いがたい魅力とは?」についてはエントリを改めて説明したいと思います。

テレビの前の私たちのすぐそばにもある魅惑的な罠についての話です。

乞うご期待!

 

その前にこらえきれずに第12話の感想書くかもしれませんが。

 あーもう明日だよ、次のキュウレンジャー明日だよ。ハァハァ…。ラッキー…。立ち上がってくれ…。

 

▼ラッキーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

*1:だから、ジャークマターと戦うスパーダたちに出会ったとき「よっしゃラッキー!」と叫んだのか、ラッキー。そうなのか、ラッキー。(妄想が暴走している)

*2:チキュウ人換算で20歳という設定が幼児誌に載っていたそうです。Twitterキュウレンジャー友達が教えてくれた。

キュウレンジャー第10話「小さな巨人、ビッグスター!」感想 ースーパーヒーローのつくり方ー

ベアーーーーーーーッッッ!!!!!三十六ですーーーーーーッッッ!!!! 

 

見ましたよ!キョウリュウジャーブレイブ!

正直、

「その程度のブレイブでキョウリュウジャーブレイブにブレイブできるというのなら、何故、キョウリュウジャーブレイブにブレイブするのが俺じゃないんだ…???????

何故、俺じゃなくあいつらが選ばれる…!!!!???

俺は「ブレイブ or チキン?」と聞かれたらいつだって「ブレイブブレイブブレイブブレイブ!!!!!!!!」と答えてきた!!!!!!

そんな俺を差し置いて、ブレイブだか流れだかよう分からんブレイブでキョウリュウジャーブレイブにブレイブだと…!!!!???

ブレイブの神よ!!!!!

俺の何が不満だ!!!!

何が俺に足りない!!!!!

ブレイブだけは誰にも負けないと思ってやってきた俺の何が間違っていた…!!!!!、、

答えろォォォーーーーーーッッッ!!!!!!!」

という気持ちが…なかったと言えば嘘になりますね。

 

ええ、ただの嫉妬です。また一から出直しますよ。今度こそ、ブレイブであいつらに勝ってキョウリュウジャーブレイブになってみせる…!!!!!!

いやでも、マジで正直な所、5人のブレイブを全部足してもまだ、今日の私のブレイブの方が勝ってますけどね…。

ええ、選ばれなかった者の繰り言です。聞き流してください。 

 

さて、本題。 

 

ビッグベア総司令からショウ司令への負の連鎖

前回の時点で、「あれこれ、ビッグベア総司令も仲間を信じられないタイプなんじゃねーの…?」とは思っていましたが、ショウさんを助けて命を落としたビッグベア総司令と、ビッグベア総司令を慕うショウさんに気兼ねして言及はしていませんでした。

そんな…言えない…。

「ジジイ、命をかけて部下を守ったお前の想いは立派じゃ。じゃが、仲間を信じられないお前に総司令を任せるわけにはいかない。」

なんて…ひどすぎて言えない…。どっかで聞いたようなセリフですけど…。私にはそんな事ひどすぎて言えない…。

 

というわけで、リベリオン、見事に負の連鎖してましたね!!

「お前は大丈夫じゃ!おまえならやれる!!!(根拠はない)*1」と仲間に言えない人間の元で育った人間は「お前は大丈夫だ!おまえならやれる!!!」と仲間に言えないのです。

 

仲間を信じられないビッグベア総司令

仲間を信じられないショウ・ロンポー司令

そして今また、ショウさんが“仲間を信じられないバトン”をラッキーに渡そうとしていたのです。(前回の話だけど!)

 

ショウさんが悪いのではありません。ビッグベア総司令が悪いのでもありません。彼らは、悲壮な覚悟で彼らの正義を完遂しようとした/しただけなのです。

しかし、自らの自由な意思に基づかない悲壮な覚悟は、仲間から自由を奪うのです。

だから、ショウさんは宇宙の希望になるという夢を諦めざるを得なかった。自分のために命を落としたビッグベア総司令の遺志に背くことなんて、できるはずがないのです。

 

罪悪感という鎖にがんじがらめになって、ショウさんは自分自身を失った。そして、自分のことを目的達成のための手段としてしか見なくなった。そして、仲間の事も、目的達成のための手段としてしか見ることができなくなり、信じるという事を忘れてしまった。*2

 

ショウさんは目的のために自らの命をなげうつことで、図らずも自分がビッグベア総司令から縛り付けられたのと同じ形でキュウレンジャー達を縛り付ける所でした。

図らずもショウさんは、負の連鎖を繋ごうとしていたのです。図らずもショウさんは、“仲間を信じられないバトン”をラッキーに渡そうとしていたのです。

しかし、ラッキーはバトンを受け取りませんでした。それは、リベリオンの負の連鎖をラッキーが終わらせたということです。

ラッキーはリベリオンの負の連鎖を止めたばかりか、ショウさんの勇気を鼓舞してショウさんは過去を乗り越えました。

………

あああーーーーーーーーーラッキーーーーーーーーー!!!!!!!お前というやつはお前というやつはお前というやつはーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!*3

主人公だ!!!!!!!!!!!!お前が主人公でなくて誰が主人公だ!!!!!!!!!!!!! 

 

子どもという他人 

「 自分が生まれた星を自らの手で守りたい!」という小太郎の夢をビッグベア総司令は一蹴します。

「ダメじゃ!!!!!!!!ボウズ、お前の想いは立派じゃ。じゃが、未熟なお前を戦いに向かわせる訳にはいかない。」

 

というか、ビッグベア総司令、小太郎やラッキーの話を頭っから否定してばかりです。浪平もビックリ、怒涛のバッカモン!です。

 

小「早くあいつを倒さないと!(オリオン号のみんなが太陽に突っ込んで死んじゃう)」
ラ「そうだな!小太郎、お前も手伝ってくれ!」
ビ「ダメじゃダメじゃ!子供に戦わせるなど言語道断!」

 

小「なんでだよ!早く倒さないとオリオン号は…!!」

ビ「黙れボウズ!!!戦いは遊びではない!!!」

 

小「食べてる場合じゃないだろ!早く(敵を)探そうよ!!!」

ビ「バカモン!!!子供は黙っておれ!!!」

 

小「俺もキュウレンジャーになって希望の星になりたい!!!」

ビ「なりたいからと言ってなれるものではないわ!!!」

 

抜き出して並べると、おじいちゃんマジさいてぇ…。

いや、分かるよ、ベアーッ!の気持ちも。小太郎の事、心配なんだよね?

でもさ、二言目には子供子供って、じゃあ小太郎が子供である限り、小太郎のいう事は聞く価値がないの?子供だから言ってることに価値がないの?

 

でも、小太郎が言ってることって全部「その通りー!」なんですよね。

早くしないとオリオン号は太陽に突っ込んで他のメンバー全員死ぬし、焼き鳥食べてる場合じゃないし、小太郎はキュウレンジャーになって希望の星になりたいし。

 

もし、小太郎が言っていることが何かの基準に照らして間違っていたとしても、小太郎にとっては“そう”なんですよね。小太郎にとって“そう”なものを、「わしは“そう”思わんからそれは間違っている!」って言っても、始まらないんですよ。

 

小太郎の“そう”と、ビッグベア総司令の“そう”は違うんです。別々の人間だから、違うのが前提なわけです。“お互いの“そう”が違う”という前提に立った上でどうするのか、なわけです。

でも、ビッグベア総司令は小太郎の“そう”も、ラッキーの“そう”も、ショウさんの“そう”も、全部自分の“そう”に変えてしまおうとしている。変えなくてはいけない、と思っている。

 

ビッグベア総司令のその姿勢に、若き日のショウさんは反発したのです。強制には反発の一択のみなのです。

人を信じられない人間の言う事(強制)には反発あるのみなのです。*4

 

ラッキーはどうでしょうか?

聞きます。そして、認めます。

 

ラ「どうしてそんなに戦いたいんだ?」
小「俺もキュウレンジャーになって希望の星になりたい!」
ラ「希望の星か、すげぇな!」

 

対等なんですね。小太郎の事を、沢山の“そう”を内面にたたえた一人の人間、として見ている。

だから、聞かないと分からないのです。聞く価値があるのです。

子供だろうが、目下だろうが、相手の考えを“正しい”/“正しくない”で裁かない。自分の考えと違っていようがなんだろうが、相手が“そう”思うものは“そう”思うんだから、そこに“正しい”も“正しくない”もないのです。

 

ラッキーとビッグベア総司令の違い

何故、ビッグベア総司令は仲間を信じられないのでしょうか?

それは、怖いからです。信じた結果傷つくのが怖いから信じられないのです。

自分が傷つきそうな出来事が起きるのを未然に防ごうと、他人を変えようとしてしまうのです。不測の事態を避けるために他人をコントロールしようとしてしまうのです。*5

 

具体的に何が怖いかは人それぞれでしょう。

ビッグベア総司令が恐れていることは

“宇宙を救うという目的が達成できない”
“仲間が死ぬ”

あたりですかね。

 

でも、それが嫌なのはラッキーだって同じです。じゃあラッキーとビッグベア総司令の何が違うんでしょうか。

 

ラッキーはそれが起こったとしても、それを「自分のせいだ…やっぱり自分には価値がない」と結論付けない。それだけです。

 

人は起こった出来事に傷つくのではないのです。

その出来事を「自分のせいで起こった、やっぱり自分には価値がない」と意味づけたとき、人は傷つくのです。

 

ラッキーは、“宇宙を救うという目的が達成できない”が起こったとしても「よっしゃラッキー!じゃあ次はこうしたらいいってわかったぜーーー!!!!!」と、前しか向いていないでしょう。

そもそも、ラッキーには“宇宙を救うという目的を達成してる途中”はあっても、“宇宙を救うという目的を達成できない”はないでしょうね。

 

“仲間が死ぬ”が起こって「よっしゃラッキー!」とは言わないでしょうけど(言ったら引く)、仲間の意志を信じているから「俺のせいで…」と下を向くことはないでしょう。

相手の意志を信じるという事は「本人がやりたいこと(ジャークマターをぶっ倒す)をやると決めた以上、死ぬのは覚悟の上だろう。それに対して自分が責任を感じる余地はない」という事です。そしてそれは、ラッキー自身が死ぬのは覚悟の上でやりたいことをやっているから、相手の意志も信じられるということなのです。ヘラヘラしてるようですさまじい覚悟なんですね。まぁ、本人楽しんでやってるんでその覚悟を感じさせませんけど。覚悟してるつもりも本人ないんでしょうけど。

 

とにかく、ラッキーは、何が起ころうと原因探しをしない。

その出来事が起こった原因を探して、その“原因=自分”としないんです。

常に、今自分には何ができるか、しか考えていない。

それが「俺が何とかしてやる!!!!!!」精神なのです。*6

 

仲間を信じる、子供を信じる

ビッグベア総司令は、小太郎やショウさんのことを「未熟、未熟」と言っていました。

小太郎やショウさんが未熟だから任せられない、という理屈です。自分が人を信じられないのは、未熟な相手のせいだ、という意識です。

 

でも、人を信じられないのはひとえにビッグベア総司令の弱さです。

ビッグベア総司令は自分の弱さに向き合えず、人のせいにしていただけだったのです。

自分の敵は、いつだって自分なのです。

 

ショウさんを“未熟”と罵るビッグベア総司令にラッキーは叫びます。

「司令は未熟なんかじゃない!司令のおかげで俺たちキュウレンジャーは9人揃うことができたんだ!ちょっと適当で頼りないけど、あんたがなんて言おうと、俺たちは司令を…信じてる!!!!!!

 

「自分を信じろというのなら、信じるに足る証拠を示してワシを信じさせてみろ」くらいのスタンスでいた総司令は、ラッキーのこのセリフに頭を殴られたような衝撃を感じたのではないでしょうか。

人を信じるのに根拠なんていらないんじゃ…。根拠を欲しがってたのはワシの器が小さかったからなんじゃ…。

 

…と思ったかはさておき、ビッグベア総司令、覚醒。

「(小太郎を襲おうとした敵の攻撃を跳ね返し、小太郎に向かって)希望の星になりたいと言ったな!その気持ちに変わりはないか!ならば、手伝ってやる!!!!

そう。できると思うのならほっときゃいいし、危ないと思うのなら手伝ってやればいいんです。

子供に対して「お前は何も気にせず好きなようにやれ!それで何が起きても俺が全部なんとかしてやる!!」と言えるのが、本当の大人なのです。*7

 

自分の考え(危ないから子供は戦うべきではない)と違う考え(子供だけど関係ない、戦いたい)に出会ったとき、それを自分と同じ考えに変えようとするのは、自他の境界線があいまいな子供のすることです。

子供は、自分と違う考えを自分と同じにすることでしか、自分の考えの正しさを守れないのです。

大人なら、子供の「したい!できる!」という意思を受け止め、人生の先輩として伴走してやればいいのです。*8

 

仲間を信じるとは、仲間の領域に踏み込まないということ。

仲間の領域に踏み込まないってのは、仲間の意志を“正しい”/“正しくない”で裁いて、変えようとしないこと。

 

それがたとえ子供相手であっても同じことです。

子供だって、一人の他者なのです。

子供だから、人生経験が乏しいからと言って、その意志が尊重されなくてもいいことにはならないのです。

 

スーパーヒーローとは

誰だって、子供の頃「子供のくせに」「お前にはまだ分からないだろうけど」と言われて悔しい思いをしたことがあるはずです。

そして、どこかに自分の意見を「子供だから」という理由でしりぞけない大人は、自分と同じ目線に立ちながら自分を守ってくれるスーパーヒーローのような大人はいないのかと夢みたはずです。

ならば、あなたがなるのです。

子供の頃夢みたスーパーヒーローに、あなたがなればいい。

ビッグベア総司令は、そんな大人になったのです。

 

そう!心に愛がなければ、スーパーヒーローじゃないのさ!!!!!*9

 

ラッキーは、リベリオンの負の連鎖を止め、ショウ司令とビッグベア総司令にかけられていた呪いまで解いたのです。

ショウ司令とビッグベア総司令にかけられた呪いとはなんでしょうか?

それは、自分には価値がないという思いです。

それは、自分は夢を追いかけてはいけないという思いです。

それは、自己犠牲がなければ人は自分に価値を見出してくれないという思いです。

そして、罪悪感で相手を縛り、相手の考えを自分の考えと同じものに変えようとする姿勢です。

 

ショウ司令とビッグベア総司令は、自己犠牲の精神で行動しながら、自分を守ろうとしていたのです。*10

ラッキーの仲間を信じる姿勢が、彼らの勇気を鼓舞したのです。

………

あああーーーーーーーーーラッキーーーーーーーーー!!!!!!!お前というやつはお前というやつはお前というやつはお前というやつはお前というやつはーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!*11

主人公だ!!!!!!!!!!!!お前が主人公でなくて誰が主人公だ!!!!!!!!!!!!! 

 

「やっぱりお前は!!!!スーパースターだな!!!!!!!!」

谷原章介さんもそう言ってますので今回はこの辺で。

(おしまい)

 

 

 

▼ガルのアホの子化が激しすぎて、もはやキュウレンジャーのマスコットと化している件について。

*1:根拠を探し始めたら、最終的に「やめとけ」にしかならない

*2:何度も言うけど、そんなショウさんが悪いと言いたい訳ではない。ショウさんがそうなってしまったのは仕方ない。やり方は間違っているけど、宇宙を救いたいという想いに嘘はないし。ただ、その夢を楽しむことが許されない、という罪の意識があっただけ。それが結果として仲間を信じられないという態度に繋がる。結局、自虐は他虐なんです。

*3:魂が鳴動したので3回言いました。

*4:過去記事の キュウレンジャー第6話「はばたけ!ダンシングスター!」感想 ールールや努力は“善”ではないのか?ー - gentle avenger の冒険 や キュウレンジャー第2話「いくぜっ!怪盗BN団」感想 -人は自分を信じる人間のことを裏切れない- - gentle avenger の冒険 参照

*5:矛盾しているようですが、境界線が希薄で、人の領域に踏み込んで「ああしろこうしろ」言ってしまう人間は、人に対して心を閉じています。傷つくのが怖くて心を閉じているのです。

人に対して心を開いている人間は、相手の領域に踏み込む真似は絶対にしません。

*6:大人は子供に期待するな、覚悟を決めろ ーラッキーの言動が私の魂を揺さぶる訳ー - gentle avenger の冒険 参照

*7:大人は子供に期待するな、覚悟を決めろ ーラッキーの言動が私の魂を揺さぶる訳ー - gentle avenger の冒険 参照

*8:「だけど、それをするとこういう問題が起こる。それはどうする?」と、助け舟を出すとかね。

*9:言いたいだけ

*10:「自分には価値がない」と思うことを避けるための自己犠牲だった。

*11:魂が鳴動したので5回言いました。

ACは“自己肯定感”を獲得しなければならないのか?

えー。三十六です。
ここ最近考えていたことに一応の結論がでたのでまとめたいと思います。
私は思考を文章に落とし込むことが苦手なので、ウンウン唸って考えながら書いた今回のエントリはいつもと文体が違いますけど、読んでね♡

 

■私の中の荒れ野■

私が、親との関係のいびつさに気付いたのは大学に入学したばかりの頃だった。

 

“AC(アダルトチルドレン)”とか“毒親”とか“自己肯定感”とか“境界線”とか、そういう概念も何もない所から、“生きづらさ”を抱えつつ五里霧中で自分と向き合い続けた。

何かを一つ克服したと思ったらすぐまた次の“直すべき自分の欠点”が見つかる。いたちごっこだ。

向き合っても向き合っても報われない。

 

物心ついた時には既に荒らし尽くされていた果てしない荒れ野を耕しているかのような感覚だった。

そして、恐らく、私は一生この荒れ野を開墾し尽くすことはできないだろうと思っていた。

それでも、開墾し尽くさねばならないと思っていた。

 

■ACは変わらねばならないのか■

先日、Twitterを通して知り合った友達とDMで会話した。

親との関係に苦しみ、その苦しみを乗り越えようとしている同志だ。

友達との話の中で、私は「毒親に育てられた人間の一応の“あがり”は、自分自身を生きられるようになる事だと思う」と言った。

自分自身を生きた所で、悩みや迷いから完全に自由になれる訳ではない。だから、“あがり”ではない。しかし、自分自身を生きていない状態より圧倒的に楽だ。私は、生い立ちで苦しんできた人間には楽になって欲しいと心から思っていた。だから、一応の“あがり”と表現した。

でも、自分の発した言葉にずっと引っかかっていた。

 

“あが”ってない人は変わらないといけないのか?楽になるため、より幸せになるため、変わらなくてはいけないのか?

私は友達に楽になれるだけ楽になって欲しい。でも、私は今のままの彼女が今のままで好きなのだ。大好きだ。変わっても変わらなくても大好きなんだ。

 

私は開墾しつくさねばならない、と愚直に自分の中の荒れ野を耕していたけれど、必要なのは荒れ野を耕すことではなかった。それはきりがない上に、「自分は変わらねばならない人間だ」という強烈な自己否定に基づいている。

私に必要だったのは、野を荒らした竜巻への憎しみを手放し、荒れ野で構わない、と心から思う事だった。そう思えた瞬間に、一生終わらないと思っていた私の開墾は終わった。

 

永遠に達成できないと思い込んでいた荒れ野の開墾は、「そもそもする必要がない」ということに気付いた瞬間に終わるものだった。正直「そんな裏技みたいなクリア条件があるか、難易度設定見直してこい」という気持ちだ。

そして、「この裏技みたいなクリア条件を共有して、意地の悪いゲームに翻弄されている同志の役に立ちたい」と思った。

 

でも、やっぱりそれは違っていた。


■“自己肯定感”を得るという目標設定■

自分自身を生きる、という感覚が腑に落ちた私は、派生的に色々な概念も腑に落ちていることに気付いた。

 

「さんざん理解しようとしても理解しきれなかった“自己肯定感”や“境界線”、“自己受容”、“自己効力感”、“アサーティブ”…等々とはこういう事だったのか」と、今の自分の内面の在り方を眺めることで理解した。

“自己肯定感”や“境界線”というものは、努力で理解して手に入れるものではなく、ものすごく楽な状態になった結果、発生するものだということが分かった。*1

“自己肯定感”や“境界線”というものは、段階的に手に入れていくものではなく、心の在り方が抜本的に変わった結果、発生するものだったのだ。*2

 

私が理解しようとして理解できなかった概念の数々は、一つ一つ別々の状態を指しているのではなく、ものすごく単純な心の在り方を、色々な角度から説明したものに過ぎなかった。全て同じ心の状態を説明したものだったのだ。

そして、そのものすごく単純な心の在り方は、メンタルヘルスの領域だけではなく、様々な創作物やビジネスマインド、自己啓発、スピリチュアル、宗教…等、ありとあらゆる領域で説明されているのだった。*3語る言葉は違えど、驚く程みんな同じ事を言っている。

 

■ “自己肯定感”とはみんな当たり前にもっているものなのか?■

自分自身を生きるようになると、自分自身を生きている人間が分かるようになる。

そこで私は再び驚いた。

「周りにそんな人間誰もおらへんやんけ」ということである。(※ 除くネット)

 

私が33年間生きてきて出会った人間の中で「あの人は自分自身を生きていた」と思い当たるのは一人。「多分自分自身を生きてただろう」まで含めて二人だ。

私が出会ってきた人間の数が相場より少な目だと仮定しても(引きこもってた時期もある)、なかなかのレア度である。

 

…あれれ~?

 

傷付いたACが回復する過程で身につけるべき“自己肯定感”や“境界線”は、“普通”の人はみな身に付けている思考形態ではなかったのか?

それを理解して、それを人間関係の中で使いこなしてやっと“一人前”、やっと“マトモ”、やっと“普通”…ではなかったのか?

“普通”に見える、“普通じゃない”自分とは違う、自信に満ちて、何の悩みも持たず輝いているように見えていた他人は、“自己肯定感”や“境界線”という作法を身に付けているのではなかったのか?

 

私が勝手に見上げていた“私以外の普通の人”は、“自己肯定感”や“境界線”など持っていない、私と同じ苦しみを抱えた人間だったのだ。

 

“自己肯定感”や“境界線”を持った人間、自分自身を生きている人間は、大概“何者か”になっているので身の周りにいない。(“何者か”になっている=夢を叶えて、自分のフィールドでバリバリやってる。)

そして、自分自身を生きてる人間は、大概自分自身を生きてる人間と付き合うので、ますますエンカウント率が下がる。(自分自身を生きてる人間は、自分自身を生きてない人間と話が合わない。)

稀にエンカウントしたとしても「あの人はエネルギッシュで人とはちょっと違うなー。憧れるけどなりたいとは思わないかなー(あんな風になって人からこんな風に思われたくないし)」みたいな感じになるので、まさかその人の在り方が“自己肯定感”や“境界線”を実現したものとはゆめゆめ思わない。

 

つまり、“みんなもってるはず”の“自己肯定感”や“境界線”を獲得しようにも、そのロールモデルとなる人間が身の周りにいなかったのだ。

にも関わらず、私は身の周りの人間全員がロールモデルだとどこかで思い込んでいた。ロールモデルを完全に見誤っていた。

 “自己肯定感”や“境界線”を身に付けている人間というのは、なかなかいるものではなかったのだ。

 

多くの人は、ACだろうがそうでなかろうが「“自己肯定感”や“境界線”?何それ?」状態で、弱い自分を抱えながら、なんとかかんとかやっているのだった。*4

 

■精神的な資本を持った階層・持たない階層■

ACを支援する立場にいて、かつ有効な支援を続けられている人というのは、まぁ大概自分自身を生きてる。

そして、自分自身を生きてる人間の周りには自分自身を生きている人間が集まっている。

ACが負の連鎖で生まれるとすれば、自分自身を生きてる人間は正の連鎖で生まれると言っていいだろう。中途覚醒する人間もいる。*5

 

なんで、多分だけど、ACに向けて「自己肯定感を身につけよう。境界線を引けるようになろう。そうすれば楽になるよ!」と応援してくれている人は、己の特異性に無自覚な所があるのではないか。

自分自身を生きている人間の周りには当たり前にいる“普通の人”は、ACの周りにはほぼ存在しない“超人”なのだ。この認識の齟齬から、私の「“自己肯定感”や“境界線”は“普通”身に付けているもの。身に付けていて当たり前のもの」という勘違いは生まれたのではないだろうか。

ACの環境では、自分自身を生きている人間を目にする機会自体がほぼ0なのだ。自分自身を生きている人間の特徴を聞いても「あぁ、あの人みたいな感じね」とならない。「未知なる生物の話を聞いているようだけども、それは周りの人間皆が持っている性質らしい…。そうは見えないが、そうらしい…。」と混乱する。

 

私は、ロールモデル不在の環境で、ロールモデル選定を誤ったまま、延々と「“自己肯定感”とは…“境界線”を引くとは…」と頭を悩ませていたのだった。*6


■難易度の高すぎる目標設定■

だから、ACに「“自己肯定感”や“境界線”を身に付けたら楽になるで!」というのは、大きく見れば確かにその通りではあるけど、少し一足飛び過ぎるのではないか。

 

「絵がものすごく不得手だけど、漫画を描きたい!」と思って『漫画の描き方』という本を手に取ったら「出版社に持ち込みましょう、プロになれます」と書いてあるようなものだ。

まずは「絵が描けるようになりましょう」な訳で。その後「漫画が描けるようになりましょう」な訳で。漫画を描けるようになって、プロを目指すなら「その意気やよし、やれ」って話な訳で。

漫画を楽しんで描いてるのなら、プロにならなくてはいけない訳ではない。WEB漫画としてネットで発表することや、同人誌を発行して即売会で売ることが、プロとして漫画を描くことに劣るわけではない。
そこに優劣はない。本人がどうしたいのか、という違いがあるだけだ。

 

ACもそれと同じで、みんながみんな“自己肯定感”や“境界線”を獲得しなくてはいけない訳ではないのではないか。

 

あまりに生きづらい要素(依存症など)が小さくなってきて、人との関わりの中で生きていけるようになった。たまに自己嫌悪で落ち込んでしまうけど、気付けば最近よく笑っている。

ACがそこまでくるのにどれ程の努力と苦労と挫折と絶望を要するだろうか。“自己肯定感”や“境界線”は得ていない。でも、素晴らしい。


そもそも依存症だって当人(の精神機序)が必死で生きようとした結果だ。それがあるから生きてこられたのだ。何かに依存しているという事は、辛い現実があっても生きようと必死に戦ってきたということなのだ。

本人は意識の上では行き辛さを抱えているかもしれない。しかし、現状におけるベストをつくしているのだ。それもまた、素晴らしい。

 

“自己肯定感”や“境界線”を獲得する。それは素晴らしいことだ。そして、それらを獲得していない人間もみな同じように素晴らしい。変わらなくてはいけない人間なんて、一人もいなかったのだ。

どの在り方がよくて、どの在り方が悪いという話ではなかったのだ。

 

「自分はどうありたいか」だけだ。「今の自分はもう既に素晴らしい。それでもやはり自分自身を生きたい」というのなら「その意気やよし。やれ」って話だ。

 

自分自身を生きるようになるには、自分の弱さと向き合う必要がある。

その恐怖(速攻で脳がそれをしなくていい“合理的な理由”を吐き出すレベルの恐怖。恐怖していることを自覚する事さえ難しい恐怖。)を乗り越えるデメリットよりも「よりよい自分を生きたい」という思いが強ければやればいいし、「やっぱ怖いから無理」というのならやらなければいい。

やってもやらなくても素晴らしいのだから、好きな方を選べばいいのだ。

 

そして、どちらを選んだとしても、それがその人のベスト(幸せ)なのだ。*7


■“癒しの途上”にある人への配慮は必要か?■

私はネットで“許し”について発言するとき「今はまだ“許し”どころではない人を傷付けるのではないか」という不安があった。

 

私の「許そう!!!!!!!」という言説で誰かが傷つくことを心配していた。過去の私が「憎い相手は許すしかない」という言説や「トラウマは存在しない」という言説に傷付いたように。

しかし、私には同時に「でもそれってなんかちょっと失礼な考え方なんでは…?」という思いもあった。


私が“回復”の糸口を見つけたくて先達のblogを必死で読んでいた頃、あるblogで「〇〇の話は聞きたい人もたくさんいるんだけど、それを書いたらまだ傷つく段階の人も沢山いるから簡単には書けない」と書かれているのを目にした。

私は「気遣ってくれるのはありがたい。けど…」と複雑な気分だった。

それを今の自分に必要か必要でないかを決められるのは私だけだ。勝手に自分の“回復具合”を計られて「あなたにはまだ早い、あなたにはまだ無理」と決めつけられるのは何かが違う、と感じた。

 

■人の“トラウマ”は私が避けてあげなくてはならないものなのか?■

「『トラウマは存在しない』という考えがトラウマの再演となる」という考えについても同じだ。

 

本来的にトラウマとは、命に係わる体験によって引き起こされるものだが、一般に、そこまでの体験によるものではない心の傷もトラウマと称されている。

自己肯定感が極端に低いと、自分で自分の辛さを認めることができない。命に係わらない体験による心の傷をトラウマと称するのは、辛さを自分で認めきれない分、それを先鋭化した言葉で補いたいという心の現れだろう。

命に係わらない体験による心の傷をここではカッコつきで“トラウマ”と表現することにする。

 

もちろん“トラウマ”はないに越したことはない。*8

が、“トラウマ”は人が生きるための機序なのだ。“トラウマ”があることで、自分が傷つくであろう出来事・人・場所から距離を置くことができる。

“トラウマ”はその人(の精神機序)が生きるために作り出した盾なのだ。

一番避けるべきこと(精神的/肉体的 死)は“トラウマ”によって避けられている。

“トラウマ”は生きるための手段であって、それを避けることが目的ではないのだ。

 

■人を信じるという事■

“未だ回復の途上にある”“傷の癒えきっていない”人間にも、自分で衝撃を処理する能力がある。

それは、意識のレベルの話だけではない。無意識的な反応も含め、生きていく力があるということだ。

今の自分にとって有害な意見・不要な意見に触れたとき、「この意見は間違っている」と耳をふさいででも自分の心を守る機序が人間には備わっている。*9そして、事実、今のその人にとってその意見は間違っている。

この先、その人のその意見に対する評価は変わるかもしれない、変わらないかもしれない。どっちでもいい。

 

全員が数直線のように決まった“回復の道”を歩いているわけではないのだ。“先達”も“未だ道半ばの人”もいないのだ。

自分が「遥か後方を歩いている」と思い込んでいる人がひょんな所から自分の立っている所にやってきたりするかもしれないし、ふと気づくと斜め上空にいるかもしれない。その座標に価値や意味はない。

 

何が“正解”で、何が“間違い”というわけではないのだ。全部“正解”なのだ。


自分の出した結論はすべて提示する。その要不要を選別するのは見る人に任せる。見た人の、自分で衝撃を処理する能力を信じる。そして、その人の出した結論が自分と違っていても尊重する。*10
それが、相手が自分とは別の一個の人間であることを認めることであり、相手が自分とは違う考えを持っていることを認めるということであり、相手の事を尊重するということだろう。

 

「今はまだ“許し”どころではない人を傷付けるのではないか」と、“人の事を心配していた”私は、単に自分の“正解”とは別の“正解”を尊重するだけの心の準備ができていなかっただけだったのだ。

よ・け・い・な・お・せ・わ ♡ ( ^o^)σ ツンッ♡

 

余計なお世話焼いてないで、(自分も含め)みんな好きにしろ!ってことだったのだ。

 

■“人と比べる”に潜む毒■

自分とは別の“正解”を尊重できないのは、人と自分とを比べているからだ。

比べると、上下が生まれる。

比べるとは、どちらかを否定してどちらかを肯定する、という事だ。どちらかしか“正解”にならない。“正解”じゃなかったほうは“間違い”だ。

 

比較によってでてくる「あの人はすごい!」は、その後に「それに比べて私は…」がっついてくる。それは、自分を否定して相手を肯定しているということだ。

自分を否定することでしか相手を肯定できない人間は、自分を肯定する時に誰かの否定を必要とする。

私の“正解”が成立するためには、“間違った”誰かが必要なのだ。

 

人と自分を比較しているうちは、「みんな“正解”」という意識にはなれない。

人と自分を比較している限り、“正解”を得ることができるのは、自分か相手のどちらかだけなのだから。

 

誰かを否定して得られる自己肯定はお手軽だ。手軽に得られる自己肯定は魅惑的だ。しかし、それは甘美な毒だ。

その毒に侵されている限り、自分以外の人間は全員、“正解”をめぐって戦うあなたの敵であり続ける。その毒に侵されている限り、人と繋がることはできないのだ。

 

そもそも、自分よりすごい人間だけがすごくて、自分よりすごくない人間はすごくないのか?それはあまりに傲慢なものの見方だろう。自分がどんだけのもんだというのだ。なんですごいかすごくないかの指標が全部自分なんだ。

自分と比べてどうこうではない。みんなすごいのだ。

 

■結論■

みんな違ってみんないい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

みんな違ってみんないい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

(おしまい)

 

ー追記ー

このエントリの内容をまとめた?ツイート貼っときます。

  

( ^o^)σ ツンッ♡

*1:逆に言えば、それを突破口にして、ものすごく楽な状態に行き着く事も可能なのかもしれないが。

*2:“自己肯定感”や“境界線”で何を表したいかにもよるけど。自分自身を生きる、という状態は、自分自身を生きてる/自分自身を生きてないの二択しかない。“割と自分自身を生きてる”という状態はない。こればっかりは0か100だ。

*3:スピリチュアルとかは毛嫌いしてたので詳しくないけど。今ちらちら読んでみる限り、同じことについて語っている。

*4:それに気づくと同時に「何の問題もないように見えても、意外とみんな親との確執に悩んでるんだな。」という実感も持った。

*5:私が特撮好きなのは、その中途覚醒をデフォルメした話が特撮に多いからだ。(もちろんアクションとかデザインとか他の要素も好きだけども。)特撮に限らず、熱い展開というのは中途覚醒を描いている。

*6:ちなみに、ロールモデルがゴロゴロいる場所がある。漫画やアニメなどの創作物の中だ。主人公は自分自身を生きているキャラクターとして描かれる事が多い。キュウレンジャーのラッキーは明確に“それ”として描かれている。

*7:当人が「自分は不幸だ…最悪だ…」と思っていたとしても。

*8:ちなみに今の私は「自分に“トラウマ”はない」というスタンスで生きているが、それは「私に“トラウマ”はある」と考えて生きる人間の“トラウマ”の存在を否定するものでも、その人の辛さを否定するものでもない。

*9:今の自分にとって有害な意見・不要な意見に対して脳が即座に“この意見を拒否する合理的な理由”を吐き出すのは自分を守るためだ。逆に言うと「毒親問題は親を許したら終わるよ!」と言われて「毒親を許せかぁ…ふーんなるほどねぇ…。まぁ、絶対許せないけどね…。」位のテンションで聞ける人は、心の中では許す準備が整ってるってことだ。あとは、自分がどうするのか、どうしたいのかを決めるだけです。

*10:ちなみに、たとえば、「お前の意見は間違っている。有害だから取り下げろ」という意見を受け入れることが相手の意見を尊重するということではない。相手の意見を尊重するとは「なるほど、今のあなたはそういう結論なんだね」と違いを認めて、それを否定も肯定もしないことだ。

キュウレンジャー第8話「司令官ショウ・ロンポーの秘密」感想 ーキュウレンジャーの語り手は信頼できるか?ー

ウィ、シェフーーーーーーーーッッッ!!!!!三十六でーーーーーす!!!!!!!

くしゃみをするたび負傷した右肩に痛みが走る!!!!!!
「ブエーーーークショィイギャァァァァッァァァァッァァ!!!!!!!!!!」
くしゃみで暴走を始める邪気眼!!!!いや、邪気右肩!!!!!!!私は片膝をつき、暴れる右肩を左手で押さえこんで言う!!!!!!
「頼む…収まってくれ!!!!!!!ウッ!!!!!くる!!!!!!!!耐えてくれよ…!!!!俺の右肩…ブエーーーークショィイギャァァァァッァァァァッァァ!!!!!!!!!!」

さぁ、順番がちょっと前後しましたけど、第8話の感想?を書いていきたいとオモイマーズ!!!!!!


スパーダとショウさんの来歴

第8話で、スパーダの身の上/来歴が明らかになりました。

スパーダ

  • カジキ座系出身
  • ジャークマターに支配された故郷で、子供の頃からお腹を空かせた弟妹のために料理を作っていた
  • 宇宙一のコックになるため宇宙各地を冒険していた(公式HPキャラクタープロフィール)


これで、来歴が明らかになっていないのは、ラッキーとショウさんだけになりました。
が、ショウさんの来歴は第9話で明かされます。第8話の感想と銘打っといて第9話の話を持ち出すのもどうなんだって話ですけど、誰も私にそんな厳密さは求めてないと思うので気にせず行くぜ行くぜ行くぜ行くぜーーーーーー!!!!!!

えー。つまり。第9話の時点で、来歴が明らかになってないのって、ラッキーだけなんです。
ラッキーって、現時点では

  • シシ座系出身
  • 宇宙の果てを見るために旅をしていた

以上の身の上/来歴が明かされていないんです。

ラッキーのプロフィールって性格の事ばっかりで、スパーダ、ハミィ、チャンプに出会う前の事に関しては“シシ座系出身で宇宙の果てを見るために旅をしていた”しか分かってないんですよ。


主人公の背景が見えてこない

登場するキャラクターが沢山いてなんか有耶無耶になってますけど、このラッキーの“正体不明さ”って結構な異常事態だと思うんですよ。

もちろん、物語ががある程度進んでからラッキーの身の上や来歴を描いていくために保留してるってだけなのかもしれません。

でも、気になるのは「なんで物語はラッキーの視点で始まらなかったのだろう?」って所です。

キュウレンジャーという物語は、“既にキュウレンジャーとして覚醒しているスパーダ、ハミィ、チャンプが惑星クロトスでジャークマターと戦っている所に、マシンが壊れたラッキーが降ってくる”所から始まりました。

物語の始まりをラッキー視点に変えてみますね。
“よっしゃラッキー!俺ラッキー!宇宙一ラッキーな男だ!宇宙の果てを見るために旅をしてるぜ!あれっ?マシンの調子が…うわぁぁぁ〜!!!なんだお前ら?面白そうな事してんな!よっしゃラッキー!俺もキュウレンジャーになる!!!”
ほら、別にラッキーの視点で始まっても問題ないんですよね。どっちかっていうと、主人公の視点で始める方が定石なんではないでしょうか。

どっちの視点で始まっても問題ないのに、あえて定石をハズしているのにはなにかしら理由があるはずです。
私が思いつく理由は2つ。

  • ラッキーというキャラクターを強烈に印象付けたかった
  • キュウレンジャーの語り手は信頼できない


信頼できない語り手

“信頼できない語り手”という言葉があります。
叙述トリックの一つで、えーっと…なんて説明したらいんだろ…えーえー…要するに “犯人はヤス” ですよ!!!!!!「えー!お前が嘘ついてたら前提がひっくり返っちゃうじゃん!信じてたのにバカバカ嘘つき!」ってヤツですよ!!!!「ほら、アレが“信頼できない語り手”だよ!」って具体的に例を挙げていう事自体がネタバレになるからなかなか「アレだよ!」って言えないんだよ!!
えっ?公式HPのネタばらしに激昂しといて“犯人はヤス”はいいのかって?“犯人はヤス”位は言ったっていいだろうが“犯人はヤス”位はーーー!!!!!(ネタバレ連呼)

えーつまり、“信頼できない語り手”とは、物語を語る人間が、物語の重要な秘密を隠して物語を語ってる、という叙述トリックを指す言葉です。信頼できない語り手は、通常、物語に登場する人物ですが、今回それは物語の外の語り手(キュウレンジャーだと脚本家かな?)とします。*1


キュウレンジャーミッシングリンク

さて。キュウレンジャーという物語が、スパーダ達の視点で始まることで可能になる事とはなんでしょうか?


一つは、ラッキーを客観的な視点(スパーダ達の視点)で描く事で、ラッキーのキャラクターをテレビの前のみんなに強烈に印象付けられるということ。
もう一つは、ラッキーの来歴を語ることなく物語を始動できるということです。

“よっしゃラッキー!俺ラッキー!宇宙一ラッキーな男だ!”で始まる物語は、ある程度ラッキーの身の上や来歴を語らないと成立しないわけです。

“よっしゃラッキー!俺ラッキー!宇宙一ラッキーな男だ!宇宙の果てを見るために旅をしてるぜ!あれっ?マシンの調子が…うわぁぁぁ〜!!!なんだお前ら?面白そうな事してんな!よっしゃラッキー!俺もキュウレンジャーになる!!!”

ほら、これ読んで「いや、なんで宇宙の果てを見るための旅をしてんだよ、てかそもそもお前誰だよ。」って思いませんか????
えっ?思いません?ああそう。

“ボンジョルノ!!僕はスパーダ!宇宙一のコックになるために宇宙を冒険しているのさ!僕は目の前でお腹を空かせている人を放っておけない!ジャークマターの支配下にあった故郷で、お腹を空かせた幼い弟や妹達にご飯を作っていたからね!僕の夢は料理で宇宙を救うこと!Si!それが宇宙一のコックになるってことさ!あれっ?あの星で争い事のようだね、いってみよう!”

ほら〜。主人公視点で始まるなら、この位説明がなきゃ違和感ありありでしょ?
この説明なしで物語を始動させるための巧妙な工夫が、スパーダ達の視点での物語冒頭って気がしてきませんか?
通常なら物語の核となるべき、主人公の背景がエアポケットとなっている異常事態を、巧妙に隠せるのが、スパーダ達の視点での物語冒頭って気が、して、きま、せん、か…?
えっ?してこない?ああそうもういいよ。

 

スパーダ達の視点で物語を語り始めた語り手は、果たして、信頼できるのでしょうか?

スパーダ達の視点で始まったことによって発生した空白、それは、本当にただの空白なのでしょうか?


もう一つの謎

キュウレンジャーには、もう一つ、明かされていないものがありますね。
ドン・アルマゲの正体です。

「正体って言ったって、ドン・アルマゲ、まだほとんど出てきてないし…」ですよね。
でも、考えてみてください。ジニス様みたいに出てくるときはいつでも顔出しオッキュー♡なラスボスもいるのに、なんで初手から“誰も真の正体を知らない”とか言ってるんですか。なんでめっちゃフード被ってんですか。

その正体を視聴者にも隠してるってことは、ドン・アルマゲは視聴者の知ってる人間の延長線上にいる人物ってことなんじゃないですか?
アゴの下までフード被ってるのは、登場人物の中に、ドン・アルマゲの顔を見たら「あっ!えっ?」ってなる奴がいるって事なんじゃないですか?もしくはドン・アルマゲの顔を見たら視聴者が「えっ?」ってなっちゃうって事なんじゃ?

ほら、キュウレンジャーって、今の所、物語の一番大事な所にいる2人(主人公とラスボス)が正体不明なんです。
これって異常事態じゃないですか?


アレは単なるラッキーなのか伏線なのか

第1話で、ラッキーがスパーダ達に自己紹介するシーンで、ラッキーはジャークマターのことを初めて聞いたという顔をしていました。
さすがラッキー!俺たちに起きないラッキーを平然とやってのけるッ!そこにシビれる!憧れるゥ!という訳です。

でも、ジャークマターが全宇宙を支配下に置いているあの世界で、生まれてこのかたジャークマターを見たことも聞いたこともないなんてこと、あり得るんでしょうか…?

多分、ラッキー は 嘘ついてないと思うんですよ。ドン・アルマゲのことを「チョンマゲ!?」って言ってたのも、素だと思います。なぜって、ラッキーは嘘をつける男じゃないガル!!!!!(ラッキーの犬)*2

 

正体不明のラッキーと、見た目と正体が不明のドン・アルマゲ。
ジャークマターを知らなかったラッキー。
これらの点を繋いでできる線の数は限られています。

 

ドン・アルマゲとラッキーは

  1. 親子(父と息子)
  2. 兄弟(兄と弟*3
  3. 双子もしくは分身

 

こんな所でしょうか。*4

ラッキーがジャークマターを知らず、宇宙一ラッキーだった理由…。ジャークマターがラッキーを守っていた…?

ジャークマターが集めているプラネジウムの利用目的とは…?チキュウは何故ジャークマターにとって重要なのか…?

 

正直、どこまでが判断材料として適切かがわからない中での考察なので、結論としてはハッキリしません。

ドン・アルマゲとラッキーに血縁関係(若しくは分身)があって…複雑な間柄で…敵には敵の正義があって…敵と思ってたら自分(肉親)で…みたいなのをキュウレンジャーでやるのか?って考えたら「しねぇだろ」としか思えませんよ私だって。

熱く愉快なキュウレンジャーで突っ走って欲しい。

 

のに、なんか不気味な空白がポコポコ空いてて気になるんですよね。

まぁ、第10話…はちびっ子戦士が出てくるみたいだから置いとくとして*5、第11話でいきなりラッキーのお母さんとかが出てくるかもしれませんけど。

 

ああぁ〜〜〜このラッキーのエアポケットをどう調理するのシェフ〜〜〜。寝かせてあるだけなの?それとも爆弾仕込んであるの?

どっち?ねぇ、どっちなの〜〜???????

 

乞うご期待!!!!!!

 

ウィ、シェフーーーーーーーーーッッッ!!!!!

(おしまい)

 

追記

ラッキー視点で始まらない理由、もう一個考えられるね。

  • 第1話でラッキー参戦〜ガル参戦までを描く必要があったから、ラッキーの来歴を説明するだけの尺が取れなかった

やっぱ考え過ぎか〜。(4000字書いた結論)

 

 

▼この考察が合っていたら私を褒めたたえてくれ!!!!!!!!!!!!

*1:「物語の作者が信頼できない語り手…それってつまり、単なる叙述トリックなのではなイカ?」とか言わない。

*2:これが日曜朝の戦隊モノでなければ、ラッキーが嘘ついてるってのもアリな展開だと思いますが、ハッキリ言って私はそんなキュウレンジャーは見たくありません。捻らず王道で私を打ちのめして欲しいのです。

*3:ドン・アルマゲの声的に年上っぽい

*4:顔出したら即バレるって点ではドン・アルマゲ=スコルピオも考えられますが、ちょっと時系列的におかしいかな、と。

*5:楽しみ〜〜〜!!!!!!!!!

キュウレンジャー第9話「燃えよドラゴンマスター」感想 ーなあ、勇気の話をしようじゃないかー

どーーーーもーーーーーー!!!!!!!!ムッチャツイテナインダベー三十六でーーーーーーーす!!!!!!!

 

先々週の日曜に、オギャーを抱いて階段を降りていたら、不運(ハードラック)と死の舞踏(ダンスマカブル)っちまったのを皮切りに、やることなすことツイてねぇツイてねぇ。あっ、オギャーは無事でしたよ!!!!代わりに私の右肩が逝きました!!!!!!!!!

最初は「オウシ!!!!!おっもしれぇ!!!!俺はこの状況を笑って乗り切ってやるぜ!!!!!ポジティブにやってりゃアンラッキーなことなんて続かねぇよ!!!!!!!」と思ってたんですけど、流石に途中から「俺って宇宙一ツイてねぇ~~~~~!!!!!!!!」って気分になってきましたね。
ちょっとボク今「よっしゃラッキー!!!」って言えない。言えないけど、「すべての涙は*1宝石に変えてやるぜ!!!!」の精神でやってまいりたいと思いまーーーーーーす!!!!!!!!!

 

そんなこんなでちょっと感想が前後しますが、第9話『燃えよドラゴンマスター』の感想から書きたいと思います。


キュウレンジャーの本領発揮だった今回。「これこれこれだよーーーーー!!!!!!!俺が特撮に求めてるのはこれなんだよーーーーーーーー!!!!!!」と魂が震えましたね。


今回の話は、“過去の失敗で勇気を挫かれたショウさんがもう一度勇気を出す”物語でした。
勇気とはなんだ?それは、伝説の戦士が強敵と戦う時にだけ出すものなのでしょうか?
ニセモノとは、本物とはなんだ?何がそれらを分かつのでしょうか?
第9話は、そんな事が語られた回だったと思います。

 

ショウさんの悲しい過去

今回の話で、ショウさんの壮絶な過去が明かされました。

伝説の救世主ではなかったショウさんがジャークマターと戦うには、スキルキュータマによる無茶な変身システムに頼るしかありませんでした。ただし、それは“ニセモノ”の力であり、変身していられる時間には制限がありました。

でも、ショウさんは自らが戦って、今、目の前にいる困っている人たちを救いたかった。ショウさんは、宇宙の希望になりたかったのです。
しかし、強力な刺客イカーゲン・マーダッココンビの前になすすべもないショウさん。ビッグベア総司令はショウさんをイカーゲン・マーダッコから逃がすために命を落とします。
ビッグベア総司令が死ぬ間際に遺した言葉「ショウ!キュウレンジャーを探せ!キュウレンジャーこそが宇宙の希望じゃーーーーーー!!!!!!!!」に応えようと、ショウさんはイカーゲン・マーダッコと一人で戦うことを決意します。


悲しい体験でショウさんが失ったもの

ショウさんは過去に、自分のしたいことをして、大切な仲間を失い、組織を壊滅へと追い込んでしまった。

 

 実際のところ、仲間が死んだのも、組織が壊滅に追い込まれたのも、ショウさんのせいかっていうと、どうかな。ショウさんだって、ヒーローごっこがしたかった訳じゃない。目の前で困っている人を放っておけなかった。その時、自分がベストだと思うやり方を一生懸命やったんです。でも、それが結果として仲間の死と組織の壊滅を招いてしまった。

ショウさんは悪くない。でも、ショウさんは自分が悪いと思ってしまった。*2そして、「自分のしたいことはしてはいけない」と思ってしまった。「自分が犠牲になって、キュウレンジャーを守ろう」と思ってしまった。
ショウさんの行動原理は、“自分がしたいからする”から“するべきだからする”に変わってしまったのです。

 

自分がしたい事をし続けて、また同じようなことが起きれば(キュウレンジャー死亡)、ショウさんは今度こそ自責の念に堪えられないでしょう。もう、2度とあんな思いはしたくないのです。あんな思いをするくらいなら自分のしたい事を諦めたほうがマシなのです。

ショウさんは、失敗に傷ついて“自分自身”を失くしてしまったのです。


過去の失敗から仲間を信じられなくなったショウさん

スパーダがイカタココンビに拉致された時、遥か遠くのラシンバン座系惑星ジーシャックにいたチャンプは自分がともに戦えないことを悔やみます。
しかし、ナーガは「信じよう。仲間たちを」とチャンプをなだめるのです。

 ショウさんは、宇宙をジャークマターの魔の手から開放するという目的のために、誰一人キュウレンジャーを失うわけにはいかない、と単身イカタココンビの所へ乗り込み、スパーダ救出を目論みます。

目的のためなら、自己犠牲は厭わない、という訳です。
キュウレンジャーは誰一人失うわけにはいかないから、一緒に戦わないのです。
キュウレンジャーを守らなくてはいけないのです。

 

過去に、そんなスタンスで仲間に接していた人がいなかったでしょうか。スパーダです。過去のスパーダのラプターに対するスタンスと、今回のショウさんのキュウレンジャーに対するスタンスは同じものです。

仲間を信じていないのです。

 

自分を犠牲にしてでもキュウレンジャーを守りたい。一見美しい自己犠牲の精神です。でも、キュウレンジャーは守ってもらわなければいけない存在なのでしょうか?

 

確かに、ショウさんが助けに入らなければイカタココンビに殺されてしまうかもしれない局面がキュウレンジャーにはあった。今度こそ殺されてしまうかもしれない。それでも、キュウレンジャーの面々は、各々「その危険があろうとスパーダを助けに行きたい」と決めているのです。その決心に対して「キュウレンジャーが死んだらダメだから自分一人でやる!」とショウさんが抜け駆けをすることは、一見美しくても、仲間を信じてはいないということなのです。


信じるとは、相手が一人の人間として、すべてを自ら引き受けることのできる存在であることを認めることです。


ショウさんは、過去の失敗に傷ついて、自分の足で立つことをやめてしまった。使命、義務という杖に頼って立つようになった。だから、自分以外の人間のことも、自分の足で立てるということを信じられないのです。


勇気をだしたショウさん

では、ショウさんが再び自分の足で立つにはどうしたらいいのでしょうか?

 

もう一度、自分のしたい事をする自分に戻るのです。また、あんな思いをするかもしれない。「自分のしたい事は、価値がなく失敗と迷惑しか生まないものだ。それを再確認するくらいなら最初から自分のしたい事を諦めてしまったほうが傷つかずに済む」そんな恐怖に打ち勝って、もう一度、自分のしたい事をするしかないのです。

 

自分のしたい事をすると決めて、「私はこれがしたい!!お前たちも好きなことをしてくれ!!!私もお前たちも、それができる!!!!」と仲間に言えた時、ショウさんは自分の足で立ち、仲間に心を開き、仲間を信じることができるのです。ショウさんが不安を見つめることをやめたとき、ショウさんとキュウレンジャーは一人一人が輝きながら同じ方向へ向かって突き進んでいくことができるのです。

 

不安を乗り越え、仲間に心を開き、自分のしたい事に素直になったショウさんは、“ニセモノ”から“本物”へと変わり、リュウボイジャーに乗って自由に空を駆け巡りました。*3

ショウさんは、勇気を出して失った“自分自身”を取り戻したのです。

 

自分のしたい事をするには、心を開いていないとできません。「過去の自分の失敗は自分にはどうしようもなかった」と自らを許し、自分の責任の範疇と思い込んでいた他人の問題を当人たちの手に返し、自分のしたい事を自分の責任においてする。
言葉にすればただそれだけですが、過去の失敗が再演されるかもしれないという恐怖に打ち勝つことは困難です。
勇気とは、その恐怖を乗り越えることをいうのです。勇気でその恐怖を乗り越えて、“自分自身”をとりもどし、人を信じ、“自分自身”で人と繋がれるようになることを、“過去を克服した”というのです。

 

勇気とは、伝説の戦士が強敵と戦う時にだけ出すものではないのです。伝説の救世主ではない我々にも、平凡な日常の生活の中にも、勇気を試されている瞬間は無数にあるのです。


“ニセモノ”と“本物”の違い

“ニセモノ”だったショウさんは、自分のしたい事をする覚悟を決めて“本物”になりました。

自分以外のもの(使命)に委ねてしまっていた判断基準を、自分に取り返したのです。自分が、何をしたいのか。自分が、どうしたいのか。失くしていた“自分自身”、主体性を取り戻したことで、ショウさんは“本物”になったのです。

 

“ニセモノ”のショウさん(リュウバイオレット)と“本物”のショウさん(リュウコマンダー)で、やってることは変わっていません。それは、努力でキュウレンジャーをやっていたハミィと、楽しんでキュウレンジャーをすることにしたハミィのやってることが変わっていないのと同じことです。

“ニセモノ”と“本物”、やってること自体は変わらないのです。違うのはやっている本人の意識だけです。

 

ショウさんは言います。「龍の道に生き、龍の道を進む。私がやらねば誰がやる!」と。
リュウバイオレットとして生きてきたショウさんの「私がやらねば誰がやる!」と、リュウコマンダーとなったショウさんの「私がやらねば誰がやる!」。言葉は同じですが、それ言うショウさんの心持ちは全く違うものでしょう。

 

“ニセモノ”と“本物”の違いなんて、たったそれだけの事です。たったそれだけの違いを乗り越える勇気を、人はなかなか持ち得ないのです。

だからこそ、勇気は輝き、人の心を打つのです。人の心を打って、心を打たれた人の勇気を呼び起こすのです。

 

「お前のやりたいことはなんだ?」

ショウさんたちの前に現れた龍はショウさんに尋ねます。「ショウ・ロンポー。お前のやりたいことはなんだ?」と。

 

キュウレンジャーでは、誰かのしたい事を誰かが勝手に決めつけることはありません。*4聞かなければ、相手が何をしたいのかは分からないから。

 

自分と相手は違う人間で、相手が何を考えているのかはわからない。それは、相手を一人の人間として尊重する姿勢です。
自分の「こうしてあげたい」を押し付けないためには、相手が何をしたいのか、相手は自分に何を望んでいるのか、聞くしかないのです。

相手が何をしたいのか、聞く。それは、「あなたのしたい事を受け入れる用意があるよ。私はあなたがあなた自身になることを応援してるよ。」というメッセージです。

ショウさんは、龍にしたいことを聞かれて、ラッキーたちに背中を押され、「私は9人の伝説の救世主とともに戦いたい。ジャークマターの支配から宇宙を開放するために!!!!!」と“自分自身”を取り戻したのです。

ラッキーたちとともに、宇宙の希望であるキュウレンジャーの一員になったのです。

 

“自分自身”を生きるとは、今この瞬間を生きること

リュウコマンダーとなったショウさんは余裕綽々でマーダッコに呼びかけます。

焦ってるの?ゆっくり楽しもうじゃない

時間に追い立てられて、はやく決着をつけようと焦っていたショウさんはもういません。

 

焦るとは、過程を楽しむことなく、結果のみを求めている状態です。努力で頑張っていたハミィや、使命感で頑張っていたショウさんは過程を楽しむどころではありません。

自分がしたくてしているのではないのだから、さっさと結果が欲しいのです。早く終わらせたいのです。

それは今を生きていないということです。過去の失敗に怯え、未来の結果を求め、今この瞬間に意識が向いていない。過去も未来も自分にはどうしようもないので、過去や未来に意識が向いていると不安を感じます。そして、不安に基づいた行動*5をしてしまう。

 

自分が、何とかできるのは、今この瞬間だけです。

今この瞬間、自分には何ができるか、を考えている人間だけが不安から自由でいられるのです。

過程とは、今この瞬間の積み重ねです。

そして、“自分自身”を生きて、したい事をしている人間は、過程を楽しむことができるのです。

 

ショウさんは過去の失敗からも、未来の結果からも自由になり、ただただ、宇宙の希望・リュウコマンダーとしての戦いをたのしんでいたのです。

 

大人になるとは

誰だって、子どもの頃は自分自身を生きていたはずです。でも、その生き方には経験不足からくるつたなさがあった。そのつたなさは、他者との軋轢や挫折を生んだはずです。

自由な子どもは、それらの失敗から「自分自身を生きることはよくないことだ。自分は自分自身を生きるに値しない」という事を“学んで”しまった。そして、自分自身を生きることを諦めて、自分の人生の舵取りを、自分以外*6に委ねてしまったのです。

大人になるとは、失敗に傷ついて失った“自分自身”を取り戻すことをいうのです。

“自分自身”を取り戻して、自分の責任で、自分のしたい事を楽しんでいくことを大人になるというのです。


また、傷つくことになるかもしれない。でも、今度は大丈夫です。自由な子どもは、自由な大人に成長している。その生き方にもうつたなさはないし、もしまた傷つくようなことがあったとしても、自分でなんとかできるのです。

勇気を出して“自分自身”を取り戻せば、誰でも大空を自由に飛び回ることができるのです。

(おしまい) 

 

 

▼スパーダ、絶対裏設定で“ゲイ”ってあると思う。

*1:show time!

*2:まぁ思うわな。

*3:そういえば、夢を叶えたラプターも自由に飛び回っていました。

*4:ラプターの夢を否定していたスパーダも、ラッキーに諭され?て、最後はラプターに「君はどうしたい?」と聞いていました。

*5:逃げ

*6:「人から見てどうか」とか「常識的に考えてどうすべきか」とか「家族はどういう顔をするか」とか色々

あ、ちょっと待って?キュウレンジャー第7話感想補遺

うちのボクが見ている何度目かのキュウレンジャー第7話を横目で見ながら色々考えてたら、タマげたアイデアキラッと閃いたーーーーーーーーッッッ!!!!!!!!!(混じってる)

 補遺補遺補補ーーーーーー遺ッッッ!!!!!!!

 

ナーガはじめての一人働き

これ、常にバランスと一緒に“お勤め”していたナーガが、バランスのために初めて一人で“お勤め”する、って話なんですね。

感情のないナーガが「バランスの誕生日を取り戻して、バランスに幸せな気持ちになって 欲 し い」という気持ちを持って、単独BN団決める…っていう。

 

だから、ナーガはトゥーミーの所に乗り込んだ時に名乗りを上げたんだね…!!!!!「探すは銀河の一等星、神出鬼没の盗人稼業、俺たち怪盗BN団…の片割れ、ナーガ・レイ!」と!!!!

キュウレンジャーのナーガとしてではなく、BN団のナーガとして、バランスの誕生日を取り戻しに行ったんですね!!!!!!

めちゃくちゃいい話じゃないですかーーーー!!!!!

 

バランスのためにナーガが捨てたもの

今回バランスが可愛すぎて気付かなかったけど、ナーガが劇的に成長した話だった。

 

人は(宇宙人だけど)仲間がいるから成長できる。仲間のために、成長する。仲間のためなら、今の自分から抜け出す勇気を持てる。

 

成長するというと、なんだかほっといても勝手にそうなるかのような印象を受けるけど、自分の在り方を変えるってのは怖いことなんです。

できることなら変わらずにやり過ごしたい。未知の状況に足を踏み入れたくない。

それが人の偽らざる気持ちです。

 

ナーガは、今が一番楽なはずなんです。争いを避けるために感情を捨てた種族なんだから。

 

感情がなければ、感情がある事で生じるあれやこれに煩わされずにすむ。

でも、感情がないから、バランスと“誕生日を祝うことを期待されない”今の距離以上繋がることもできないのです。

 

バランスと繋がりたい。バランスが生まれてきてくれたことを、バランスが自分と出会ってくれたことを喜びたい。

だから、ナーガは“感情のない安定した世界”を捨てるのです。

 

繋がりたい繋がりたいって…

お前らやっぱり!!!!!BL団だな!!!!!!!(谷原章介

と言わざるを得ない感じになって参りましたが。

 

私にとって、ラッキーはものすごく“響く”キャラだけど、感情のないナーガには、正直、どう感情移入したものかよく分からなかった。

けど、今回のこれで分かった。

ナーガの、“変わろうとする勇気”に共感すればよかったんだ。

 

ナーガが、感情という未知の恐怖をつかもうとしたから、ナーガはバランスの誕生日を祝うことができた。

バランスだって、本当はずっと、ナーガにニッコリと笑って誕生日を祝って欲しかった。

バランスの誕生日を祝うナーガの笑顔はぎこちなかった。けど、バランスにはそれが最高の誕生日プレゼントだった。

 

だって、彼らはBL団だから…。(台無し)

(おしまい) 

 

キュウレンジャー第7話「誕生日をとりもどせ!」感想

どーーーーーもーーーーーーー!!!!!!!!三十六でーーーーーーす!!!!!!!!!

 

明日もうキュウレンジャー放送する!!!!ってこのタイミングで第7話の感想ですよーーーーーー!!!!!!!!!!

今回はコラボ回ということもあって、正直あんまり心理的な観点からの感想はないよ!!!!!!そっちのほうが書くのが難しいよ!!!!!!

 

雑感

まぁもう、とことんバランスくん(300さい) が可愛かった。

誕生日楽しみにし過ぎだし。強がってみせてもお目目が正直だし。ナーガには期待してないとか言いながら、ナーガの笑顔をプレゼントされたら半泣きだったし。

 

そしてショウさん本気の「命令だ!!!!!!!」。早速落としに来てんじゃねぇ!!!本気のショウさんに周りがビックリしてちょっとシーン…からの、テキトーショウさんアゲイン!!!!!!!!(惚れたで…ショウさん…)

キュウレンジャーは、こういう間の取り方にものすごいリアリティがある。


イカーゲンの「イカなる運命も手に取るようにわかる」ってセリフには、“心を読む”系の能力を期待してしまうよね!!!!!!!!

ナーガの“争いをさけるため感情を捨てた種族だけど、感情に興味を持ち、感情を手に入れることが夢”って設定とかもそうなんだけど、キュウレンジャーは恐ろしいほど明確に、テーマに沿って、秀逸な設定が積み上げられている。
イカーゲンの能力も、その“テーマに沿った秀逸な設定”の一つなのかな、と。

いろんな種類の“弱さ”を持ったキュウレンジャーの面々が、どんな危機に直面し、どんな風にそれを乗り越え、どんな答えにたどり着くのか。楽しみで仕方ない。

 

敵のトゥーミーは…今回はそんなに深い意味のあるキャラクターには見えなかったかな。
自分の無価値感から目をそらすために、好きなものを過剰に求めてしまう心理(いわゆる依存症)のメタファーにも見えんことも…ない…か?(穿ちすぎ)
楽しい楽しい誕生日だって、毎日が誕生日だったら、それはただの日常だし、自分が生まれてきたことを喜んでくれる人もいない。誕生日は、年一だから、自分が生まれてきて出会えたことを喜んでくれる人がいるから輝くんだ、と。


イカーゲンとマーダッコの一見凸凹だけど、片方は粗暴さで、片方は適当さで自分を守っているという実は似た者同士なコンビもいいよね!!!!!!しかもそれぞれ一騎当千の刺客。いい。
ハスラーラプターとか、いちいちさしはさまれるダジャレ*1とか、一見無駄っぽい遊び要素(それがまたいいのよ)の多さに、作り手が楽しんでやってる感があっていい。

 

そんなわけで、今回は割と取り留めなく自由に感想を書いてみたよ!!!!!!
じゃあね!!!!!オッキュー!!!!!!!!!!!
(おしまい)

 

 

▼今週はエグゼイドのポッピー洗脳が衝撃的だったよ!!!!!!!!

*1:「なにしやガル!」「オウシ!」「まーイッカ」