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gentle avenger の冒険

キュウレンジャーの感想を心の話を軸に書いてます!セイ!ザ!チェンジ!!!!

三たびドン・アルマゲの正体を考察する

ブログ方針転換すると言いつつ更新頻度上がっております三十六ですーーーッッッ!!!!!!

 

さて、毎度お馴染み、ドン・アルマゲの正体を考察すると銘打ちつつ「ドン・アルマゲはラッキーパパだよ!!!」と力強く言い切ってゆくコーナーでございます。

 

ドン・アルマゲ御影

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こ…焦げとる…

 

これもう、あの日あの時あの場所以外、どこで顔焦げるって言うんですか!!!!!!

あーのー日ーあーのー時あーの場所ーで顔ーが焦げなかーったらー♪ アルマゲーはいつまでもーキレイなお顔のーーーーー…まま!!!!!ですよ!!!!

これもう、逆にドン・アルマゲがラッキーパパじゃなかったらオッタマゲーションですよ私は!!!!!

 

スペースオペラで顔を隠したラスボスが大火傷してるって、

ジャーンジャーンジャーン!ジャンジャジャーン!ジャンジャジャーーン!

コーーー…ホーーー…、コーーー…ホーーー…

ですよね!!!!

父殺しのテーマで有名な!!!!!

オマージュじゃないのにここまで揃えますか?????これでダースベイダー連想するなって方が無理でしょ??????

 

これ、あるんじゃないですか…。

ドン・アルマゲ「ラッキー、パパだよ。そしてこれはパンダ」

あるんじゃないですか…。

 

疑心暗鬼

私、最初にドン・アルマゲの正体考察エントリ書いた際、公式HP(パソコン用)でドン・アルマゲのプロフィール確認してるんですが、たしかその時はこんなに顔ハッキリ写ってなかったんですよ。

燃え盛る神殿の回想シーンを含む11話・12話の放送を受けて、アルマゲさんの写真が更新されたのかな…?

 

そうするとこれはむしろ罠…なのか…?

アルマゲさんのカリッと焦げた写真を見せ、

「キタコレ!!!!!アルマゲ=ラッキーパパ!!!!!!」と期待させておいて「実はチガイマーズ!!!!!!wwwwwwww引っかかったの誰ちゃん??????マジウケる!!!!!wwwwwwwwww」とやるための罠なのか…。

 

裏の裏は表なのか…?

(おしまい)

 

 

それでは聞いてください。

アルマゲドンは突然に。

キュウレンジャー第11話「宇宙を救う3つのキュータマ」感想・2 -“力に溺れる”とは-

どもーーーーーーッッッ!!!!!!三十六ですーーーーーーッッッ!!!!!

 

夜なべして書いた考察エントリが第12話に爆殺されましたね!!!!(ラッキーがドン・アルマゲ=ラッキーパパって気付いている可能性はほぼ消えました)

感情先行で断定しちまうから俺ァ考察向いてねぇんだよ!!!!!知ってた!!!!!!

でも、私、何があってもドン・アルマゲがラッキーパパって信じてる…!!!!信じてるから…!!!!!!!だってそういう展開が見たいんだもん…!!!!!、(最早考察でもなんでもない)

 

“力に溺れる”とは?

さて。第11話は、ラッキーの過去が初めて明かされた一方で、「“力に溺れる”とは何か?」という小テーマが語られました。

 漫画やアニメではよく聞く“力に溺れる”という状態とはどんな状態なのでしょうか?

 

“力に溺れ” かける小太郎

ビッグベア総司令の協力を得て、キュウレンジャーに覚醒したばかりか、巨大化能力まで手に入れた小太郎。

戦う力を得た小太郎が、これまでは石を投げるか逃げるかしかできなかった「ギョイサー!」どもを蹴散らすことに快感を覚えるのは無理もない事です。新しく得た“力”の威力を確かめるかのように、ノリッノリでインダベーをやっつけるのであります。

 

そんな小太郎にスティンガーは、力に溺れて闇落ちした兄・スコルピオの話をします。そして「弟が誇れる兄でいろ!そうすれば、お前が力に溺れることはない…」と諭すのでした。

 

さぁ、何故、弟が誇れる兄でいることと、力に溺れないということが繋がってくるのでしょうか?

分かるような…そこんとこだがおれにもようわからんような…。

 

それを説明するために、まず、力とは何か?について説明しましょう。

それには、“自信”が深く関わってきます。

 

自信には二種類ある

自信には二種類あります。そして、それらは全く性質の違うものです。

全く性質の違う二つの姿勢が、自信という一つの言葉で表されているのです。

 

その二つとは

“根拠のある自信”“根拠のない自信”

です。

 

根拠のある自信とは「自分は〇〇があるから(=根拠)すごい」という、自分に対する価値判断です。

〇〇に入るのはなんでもいいです。

肩書、学歴、知識、容姿、技能、地位、財産、年収、実績、経験、年齢…。

人と比べられるものなら、なんでもいいです。

 

根拠のない自信とは「自分はできる(根拠はない)」という、自分に対する信頼です。

根拠はありません。ただ、そう信じているだけです。

 

“根拠のある自信”の根拠とは

“根拠のある自信”の根拠は、何のために必要なのでしょうか?

 

人の目から、自分を守るために必要なのです。

 

「俺ってすごいぞ!」と思っているときに、他人から「いや、すごくねーじゃん」と言われると死ぬので、先回りして「いや、本当にすごいよ?本当にすごいからね?」と言っておく。それが“根拠”です。

 

根拠はどうすれば根拠足りえるのでしょうか?

それは「すごくねーじゃん」と言ってきた奴よりすごけりゃ根拠足りえるのです。

「お前よりすごい〇〇持ってますが何か?」で相手を黙らせられたら根拠としては及第点なわけです。

 

“根拠のある自信”の“根拠”は、他人との比較の上になりたっているのです。

 

だから、根拠のある自信は、自分よりすごい〇〇を持っている奴が現れた瞬間折れます。 

ええ、ええ、それはもういとも簡単にポキーーーーーって折れます。

「いや、あいつの〇〇は大したことない!」とか「〇〇なんて持ってても意味ない!(急にダブスタ)」とか「いくら〇〇持ってても××がないなんて、人として寂しいよね…(澄んだ目)」とか言ってみたところでもう折れてます。残念ですが、骨まで逝ってます。私も何度骨まで逝ったことでしょうか。 

 

 

“根拠のある自信”とは、人と自分を比べて、自分が勝っていた場合にのみ手に入る“自信”です。

その自信が手に入るのは、対戦相手によります。対戦相手次第で折れます。対戦相手依存型の自信です。

 

そして、俺より強い奴は、わざわざこちらから会いに行かなくともその辺にゴロゴロしています。インターネッツなどしようものなら、そこはもうナメック星。

「おいおい…この人ったら、〇〇も××も△△も俺よりすごいやんけ!!!!!天から何物与えられとんねん!!!!!」みたいなバケモノがゴロゴロしてる訳です。

 

 「正攻法じゃとても太刀打ちできんぞ」ということで、“意外性”で戦ってみるのもいいでしょう。「自分って○○に見えるけど、意外と××なんです。」と、性質の離れた二つの要素を合体させることで戦う相手のいないニッチにダッシュで逃げ込むという最終奥義です。

安心してください。逃げ込んだ先のニッチにも俺より強い奴がいて、キッチリ殺してくれます。

 

逃げ場はねぇのであります。

複雑骨折からの死亡、待ったなし。

それを避けようとしたら、根拠の底上げのために努力!もしくは他人を否定!もしくは見ないフリ!しかないのです。*1

そして、つえぇ奴らには決して、努力では追い付けないのです。

 

根拠のある自信=オプションへの自信

根拠のある自信の“根拠”は人と比べられるものでなくてはいけません。
肩書、学歴、知識、容姿、技能、地位、財産、年収、実績、経験、年齢…。

しかし、これらの要素は全て、自分という存在におけるオプションなのです。

“自分自身”という自分の核を取り巻くオプションなのです。

自分=自分自身+オプション

なのです。

 

つまり、

根拠のある自信 = オプションへの自信

根拠のない自信 = 自分自身への自信

ということです。

 

オプションは比べられますが、自分自身は比べようがありません。「あの人より私の方が私だから偉い!」とか、無理な訳です。みんな違ってみんないいの世界。

だから、自分自身は根拠なく信じるしかないのです。

 

オプションへの自信をいくら積み重ねても、自分自身への自信には繋がりません。

自分自身への自信とは、“根拠なく信じる”必要があるものであり、根拠なしには成立し得ないオプションへの自信とは、そもそも相容れないものなのです。

 

そのくせ、オプションへの自信喪失は、自分自身への自信喪失になり得ます。(=骨まで逝く)

だからこそ、「オプション=自分の価値であり、オプションへの自信=自分への自信」と思ってしまいがちなんですね。*2

 

どのオプションが自分自身の価値と結びつきやすいかは人それぞれです。“異性とのコミュニケーション能力”というオプションと自分自身の価値を同一視して自信喪失…なんかはあるあるな例でしょう。

ネットで頻繁に勃発する独身vs既婚の戦いや、子持ちvs子無しの役、なんかもオプション同士の戦いですね。

 

結構戦えちゃうオプションを持っている人もいるでしょう。地元じゃ負け知らずかもしれません。

 

しかし、残念なことに、「俺はお前に勝てるオプションを持っているんだぞ」という形の自信は、どこか人を見下した雰囲気をまとってしまうのです。

その人を見下した雰囲気がかもし出す逆説的な小物感!!!!!!他人に怯えてる感!!!!!!!器ちっさい感!!!!!!!は、他人からは悲しい程に丸見えなのです。

 

そして、今度は誰かに負けるかもしれない、という恐怖を抱えてオプションを磨く努力を続けるのです。

 勝っても努力、負けても努力。

根拠のある自信、オプションへの自信は、勝っても負けても地獄なのです。

 

力に溺れるとは、弟が誇れる兄とは

さぁ、もう分かりますね。

“力に溺れる”とは、自分自身への自信を持てずに、オプションへの自信を肥大化させてしまった状態を言うのです。

はっきり言って、力に溺れていない人間を探す方が難しいくらい、ありふれた状態です。

 

スティンガーが小太郎に言った「弟が誇れる兄でいろ!」という言葉。これは、小太郎に自分自身への自信・誇りを意識させる為のものだったのです。*3

 

自分自身への自信は、自らの正しい行いに支えられます。何を持って“正しい”とするかは人それぞれですが、例えば、人殺しをする自分の自分自身を信じることのできる人はいないでしょう。

“正しくない”と感じることをする事は、自分を諦めるということです。

お天道様に恥じる所ァねェ!!!!という行いの積み重ねが、自分を尊敬できる行いの積み重ねが、自分自身への信頼・自分自身への自信へのきざはしとなるのです。*4

 

そして、自分自身への自信を身につけた人間が力に溺れる(=オプションへの自信に依存する)ことはないのです。

 

力に対する自信を肥大化させて、自分と人とを比べるようになってしまえば、他人は全て、力の強さを巡って戦う敵になります。

自分より力のある人間は、自分の価値を損なう敵であり、自分より力のない人間は、自分の価値を確かめるためのコマであり、自分の価値を脅かし得る敵である。

力は、自分自身への自信を補うための手段だったはずのに、いつの間にか力を比べることそれ自体が目的となってしまうのです。自分の力を人と比べて勝つことが目的となってしまう。

それが、力に溺れるということです。

 

スコルピオは、自分の得た力に溺れて闇に落ちた。力は得たけれども、核となる自分自身への自信がなかった為に、力の持つ魅力(まやかしの自信を与えてくれる)に取り憑かれてしまったのです!!!知らんけど。

 

オプションの価値はおまけ

「じゃあ、弊害だらけのオプションは無駄なのかよ?」ですよね。

 

いや、無駄じゃないんです。

無駄じゃないけどしかし、オプションの価値を高めるのは自己満足で終わらせなくてはいけない。オプションの価値を高める事を目的としてはいけないのです。

 

それは、以前のエントリで書いた“過程を楽しむ”という姿勢の話に繋がってきます。

過程を楽しむ人間が結局、努力では到達し得ない高みまで登るのです。しかし、その高みという結果はおまけなのです。

オプションの価値を高めるという結果を求めて努力して、オプションの価値を人と比べたら、終わりです。絶賛溺れかけてます。てかもう溺れてます。溺死寸前です。*5

 

逆に言えば、人と比べて勝つ為にしていることは、自分が本当にしたい事ではない、という事ですね。*6

どんだけ「いや!好きでやってる!!」と思っても、それを人と比べているのなら、それはやわらかい自分自身を守る為の鎧です。

自分自身がダイヤモンドのように輝けば!!!!硬く輝くダイヤモンドのような自分自身を抱いていれば、本当にしたい事をする事ができるのです。

 

自分自身への自信が持てれば、ノーガードでノーダメージなのです。

自分自身は比べようがないのだから、自分自身への自信は折れないのです。自分自身を守るためのガードなんて、自分自身への自信があるなら、いらないのです。

自分自身に自信がある人間を、誰も傷つけることはできないのです。*7

 

ノーガードでノーダメージなら、人と自分を比べる必要もない。

ノーガードでノーダメージなら、自分を守る為に人を否定する必要もない。

自分を守る必要がないのなら、オプションの価値を高める作業も不要なわけで、あとはもう好きな事をするしかないのです。

 

それが、自分自身を生きるということです。

 

自分が溺れている力は何か

あなたはどんな“力”に溺れているだろう?

その力は、あなたを守る鎧かもしれない。

でも、その鎧は自由に空を飛び回るには重すぎる。

 

鎧は脱げ!!!!!!

そして、降り注ぐ流星群に乗り、飛べ 飛べ 飛べ 飛べ!!!!!!!!

飛ぶんだ!!!!!!!!!

(おしまい)

*1:努力は“善”ではないのか?については過去記事でクドクド書いてます。

*2:承認欲求に感しても同じことが言えるのではないでしょうか。承認欲求を持つ人間が承認されたいのは自分自身でしょう。しかし、オプション=自分だと思っていれば、他人に提示できるのはオプションのみ。オプションがいくら承認されても、承認欲求は満たされないままです。

*3:「自分が誇れる自分でいろ!」ではない所に、スティンガーの兄・スコルピオへの思いが滲んでいます。スコ兄!!!スティンガーの気持ちも考えてあげて!!!!

*4:しかし、最終的には“根拠なく信じる”というハードルを飛ぶ必要はある。

*5:以前のエントリで書いた「上下関係の世界に自己肯定感は芽生えない」ってのは、そういうことです。

自己肯定感ってのは、自分自身に対する自信とほぼ同義です。

オプションへの自信が、上下関係の世界を目の前に作り出すとすれば、自分自身への自信は、横並びの世界を目の前に作り出します。どちらもあなたの意識が作り出す幻です。ならば、敵だらけの幻より、幸せな幻を見ようじゃないか、という話です。

*6:受験やスポーツなど、目標を達成するためには人と比べざるを得ないものもありますが。比べた結果を自信にしちゃったらアウツ。

*7:自分を傷付けられるのは自分だけです。人から何か言われて傷付くのは、自分も密かに同じ事を思って自分を責めている時だけです。自分自身を認めて信頼できるのなら、自分自身を責めずに許せるのなら、人の言動で傷付くことはないのです。

方針転換のおしらせ

どうもこんにちは。三十六です。

ブログの方針転換のお知らせです。

 

ブログ、愛してる

心の話を軸にしてキュウレンジャーの感想を書くというこのブログ。

「女性が興味を持つ(傾向のある)心の話と、男性が興味を持つ(傾向のある)特撮を合体させて、ブルーオーシャン〜〜〜〜!!!!!ブルーオーシャンかつプライベートビーチ〜〜〜〜!!!!!俺しか泳いでねぇ〜〜〜〜〜!!!!!」と思っていましたが、ありがたいことに最近ではブログの感想を頂いたり、ブログを通じて友達ができたりしております。

 

頭の中で漠然と考えている事を文章にすることで、自分の進むべき方向を明確にすることもできていました。

季節の変わり目、肉体的な疲労で、ベストな在り方からズレてしまった時、過去のエントリを読んで自分のズレを意識したりもできました。

言うなればブログは私のポーラースターです。

 

文章書くのむずかちい

が、ブログで扱う内容が深くなっていくにつれて、エントリを書くスピードがどんどん落ちてきました。

深い内容のエントリを書くというのは、頭の中に3Dで存在するものを、文章という2Dに変換するような感覚です。

3Dから2Dにそのまま変換したら、裏っ側で繋がっている部分が見えなくなって論理的に繋がらなくなるので、2Dで再構成しなおす…みたいなイメージなのですが、こっ!れっ!がっ!脳が煮えそうに難しい。

「頭の中ではあっさり繋がってる部分が、文章にしようとすると、ものすごく遠回りしなければ繋がらない。どうにか最短距離で繋げないか…うーんうーん…」なんてやってると、2時間3時間平気で経ってしまうのです。

 

そして、そうやってこねくり回したエントリはなんか固くて、勢いがない…。あんだけ苦労しておもろないんかい…感。

勢いがあるエントリを書けている時ってのは、多少の論の繋がらなさは気にしない、読み手を信じていられるコンディションってことなのかもしれません。

 

自分自身を生きる、それから?

人が作品で語ったテーマを切り取って、むき出しの結論だけを語ることにも違和感を感じてきました。

キュウレンジャーは、私が長年目指してきた心の在り方(自分自身を生きる)が描かれている作品です。

私は10年以上、それ(自分自身を生きる)を目標に生きてきました。でも最近、それは目標ではなく、手段だということが分かりました。

それは、自分の夢を叶えるための心の在り方なんです。それがあって初めて、夢に向かって歩き出せるツールだったのです。

目標だと思っていた所に辿り着いたら、そのまた向こうに目標があった。私の冒険はまだまだ終わらないのです。

キュウレンジャーは自分自身を生きて、宇宙を取り戻す。では、私は自分自身を生きて、何をしたいのか?

 

今までのエントリでも隠しきれていませんでしたが、私にとって、それは漫画です。漫画なんです。私は漫画を諦めきれない。

キュウレンジャーで語られていることを切り出して、むき出しの結論として解説するのではなく、私も自分の作品でそれを語りたい。テーマとして沈潜させたい。

だから、ブログに充てている時間を、漫画に充てたいのです。

 

結論

だから、ブログは不定期更新にします。

11話感想・後半は脳を茹でまくって近々更新しますので、読んでね!

キュウレンジャー第11話「宇宙を救う3つのキュータマ」感想 ードン・アルマゲの正体再考ー

ちなみにラッキーが最初っからあのキャラじゃなくて、苦しみの中からあのキャラを獲得した…みたいな過去があったとしたら、私はもう胸が熱くなりすぎてスーパーノヴァ死する。

キュウレンジャー第6話感想 +α ールールは卑怯さを引き出すー - gentle avenger の冒険

 

スーパーノヴァ死ました。

ソウルがバーニングしてスターダストになりました。バーニングゾンビ三十六です。

 

第11話を見た私の魂がすすり泣くのです。折れたラッキーの心を、ラッキーの過去の絶望を思うと、我知らず涙が出てくるのです。

ラッキー、お前が乗り越えてきた絶望とはなんだ!!!!!!お前が彷徨った絶望はどんな景色だった??????

ラッキー、お前は絶望の中から立ち上がったのか!!!!!!お前は、絶望の中からあのダイヤモンドのような心を生み出したというのか!!!!!!!!

ラッキー、私の半身よ。 お前の絶望の深さを、お前の勇気の尊さを、私は知っている!!!!!!

 

助けてくれラッキー。この胸の痛みは、お前がその絶望を、その挫折を乗り越えることでしか治まらない。

もう一度、立ち上がってくれラッキー!!!!!!!!!!!!!!

 

ラッキーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

作品に魂を掴まれる

私のこの感情は一体なんなんでしょうか。

キャラクターに惚れるとか、そういうレベルの話ではないのです。

 

そして、思い出しました。過去にこんな気持ちになった作品がほかにもあったことを。

自分の魂を掴まれた、と感じた作品が過去にあったことを思い出したのです。

 

かぐや姫の物語』です。

 

かぐや姫の物語』は、見ていて気が狂ってしまうのではないかというくらい魂を掴まれた。作品が掻き立てる感情から逃げ出したいのに、目を離すことができなかった。おそらく、二度は見れない作品です。

 

そして、今また私は『キュウレンジャー』に魂を掴まれている。私は、ラッキーという存在に魂が共鳴するのを止められないのですセイザチェンジ!!!!!!!!!!! 

 

キュウレンジャーの謎を再考する

前置きが長くなりましたが、今回はキュウレンジャーという物語における重大な秘密(ラッキーの過去)が明かされた回です。

今回明かされた秘密を踏まえて、過去に考察したキュウレンジャーの謎に、もう少し迫ってみたいと思います。

 

キュウレンジャーに横たわる2つの大きな謎について考察したエントリはこちら。読んでない人は先に読んでね!面白いよ!多分!

 

gentle-avenger.hatenablog.com

 

 

ドン・アルマゲの正体とは?再考

  

ドン・アルマゲとラッキーに血縁関係(若しくは分身)があって…複雑な間柄で…敵には敵の正義があって…敵と思ってたら自分(肉親)で…みたいなのをキュウレンジャーでやるのか?って考えたら「しねぇだろ」としか思えませんよ私だって。

キュウレンジャー第8話「司令官ショウ・ロンポーの秘密」感想 ーキュウレンジャーの語り手は信頼できるか?ー - gentle avenger の冒険

 

キュウレンジャーに横たわる謎を考察したエントリで、上記のように私は書きました。

 

撤回します。


他者否定と自己防衛が充満するこの時代の子供番組に、ラッキーという主人公を据えた人達が、親と子の確執を描かないわけがない。

根拠はありませんが、今の私はそう確信しています。

 

今、私は根拠なく断言します。

ドン・アルマゲ = ラッキーパパ である!!!!!と!!!!!!!!!

 

そして、以下の文章、これも撤回します。

 

多分、ラッキー は 嘘ついてないと思うんですよ。ドン・アルマゲのことを「チョンマゲ!?」って言ってたのも、素だと思います。なぜって、ラッキーは嘘をつける男じゃないガル!!!!!

キュウレンジャー第8話「司令官ショウ・ロンポーの秘密」感想 ーキュウレンジャーの語り手は信頼できるか?ー - gentle avenger の冒険

 

今回の描写で、ラッキーが嘘をついている可能性も大いに出てきました。

父であるドン・アルマゲを討つために宇宙を旅していたラッキーが、ジャークマター(ドン・アルマゲ)を倒そうとしているキュウレンジャーと出会い*1、素性を隠したまま参戦した…という物語も十分に成立可能な圏内に入ってきたのです。

 

 バランスくん300歳は伏線か

しかし、ラッキーはどう見ても20代。*2

ドン・アルマゲ=ラッキーパパと仮定して、燃え盛る宮殿で独り泣く幼い日のラッキーが6歳だとしたら、ドン・アルマゲ誕生(?)は14年前となります。

14年でジャークマター結成、巨大組織化、全宇宙掌握…。いくらなんでもドン・アルマゲ有能すぎ問題。いくらなんでもドン・アルマゲ有能すぎ問題なのであります。

 

ガルの一族が全滅させられた時期や、スティンガーの兄であるスコルピオが闇落ちした時期、カジキ座系がジャークマターの支配下に置かれた時期、ショウさんがリュウバイオレットとして戦っていた時期…等々を考え合わせると、なんとなく、ドン・アルマゲのキャリアスタートが14年前というのは無理があるのです。

 

しかし、我々には既に示されていたのです、その無理を可能にする設定が。

 

それは「バランスくん300さい」です。

第7話「誕生日をとりもどせ!」は、バランス300歳の誕生日の話でした。

見た目やしゃべり方から考えれば、バランスの年齢はチキュウ人換算で20代前半といったところでしょう。 

 

そう…。キュウレンジャーのメンバーは小太郎以外全員宇宙人なのです。

ラッキーの見た目が20歳だからといって、生きてる年数が20年とは限らないのです。

バランスの300歳という設定は、キュウレンジャーのメンバーの見た目の年齢と、実際に生きている年数が違うことの伏線なのではないでしょうか。

 

信頼できない語り手による時系列

テレビの前の我々は、今までに示されてきた過去のシーンをなんとなく、それぞれのキャラクターの見た目の年齢に沿って時系列に並べてきたはずです。

 

スパーダの故郷がジャークマターの手に落ちたのは25年前くらいだろう。(子供の頃には既にジャークマターの支配下バリバリっぽかったし、スパーダの見た目的になんとなく。)

ショウさんがリュウバイオレットとして奮闘して、リベリオンが壊滅寸前になったのは、20年前くらいだろう。(壊滅寸前のリベリオンを立て直してキュウレンジャーを探す時間を考えると。+ショウさんの見た目的になんとなく。)

ラッキーが1人で泣いていたのは15年前くらいだろう。(ラッキーの見た目的になんとなく。)

スコルピオ闇落ちは10年前くらいだろう。(スティンガーの見た目的になんとなく)

ガルの一族が根絶やしにされたのは、3~10年前だろう。(ガルの見た目的になんとなく)

BN団結成は3~8年前だろう。(バランスやナーガの見た目的になんとなく)

 

細かい数字は人によって違うでしょうが、出来事の時系列を想像する時に、キャラクターの見た目が大きな判断材料になっているという点は皆同じなのではないでしょうか。

 

しかし、キュウレンジャーに出てくるキャラクターの歳の取り方は、おそらく一律ではないのです。

そして、その事実は「バランスくん、300歳のおたんじょうびおめでとう!(見た目若いのにね!)」という形であっけらかんと明かされている。

 

私たちが、キャラクターの見た目に引っ張られてなんとなく想像した過去の出来事の時系列が根底から覆る可能性を秘めた情報(バランスくん300さい)があっけらかんと、笑い話のように明かされているのです。

 

やはり…キュウレンジャーの語り手は信頼できないのでは…?という考えが頭をよぎります。

キュウレンジャーの語り手は、テレビの前の我々に誤った時系列を想像させることで、巧妙に、ラッキーの素性、ラッキーとドン・アルマゲの繋がりを不可視化している。

 

…のかもしれない!!!!!!!!!

(おしまい)

 

 

第11話は物語の重大な秘密が明かされると同時に、「“力に溺れる”とは?」という小テーマが語られた回でもありました。

「“力に溺れる”とはどういうことか?」「“力”とは何か?」「“力”の持つ抗いがたい魅力とは?」についてはエントリを改めて説明したいと思います。

テレビの前の私たちのすぐそばにもある魅惑的な罠についての話です。

乞うご期待!

 

その前にこらえきれずに第12話の感想書くかもしれませんが。

 あーもう明日だよ、次のキュウレンジャー明日だよ。ハァハァ…。ラッキー…。立ち上がってくれ…。

 

▼ラッキーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

*1:だから、ジャークマターと戦うスパーダたちに出会ったとき「よっしゃラッキー!」と叫んだのか、ラッキー。そうなのか、ラッキー。(妄想が暴走している)

*2:チキュウ人換算で20歳という設定が幼児誌に載っていたそうです。Twitterキュウレンジャー友達が教えてくれた。

キュウレンジャー第10話「小さな巨人、ビッグスター!」感想 ースーパーヒーローのつくり方ー

ベアーーーーーーーッッッ!!!!!三十六ですーーーーーーッッッ!!!! 

 

見ましたよ!キョウリュウジャーブレイブ!

正直、

「その程度のブレイブでキョウリュウジャーブレイブにブレイブできるというのなら、何故、キョウリュウジャーブレイブにブレイブするのが俺じゃないんだ…???????

何故、俺じゃなくあいつらが選ばれる…!!!!???

俺は「ブレイブ or チキン?」と聞かれたらいつだって「ブレイブブレイブブレイブブレイブ!!!!!!!!」と答えてきた!!!!!!

そんな俺を差し置いて、ブレイブだか流れだかよう分からんブレイブでキョウリュウジャーブレイブにブレイブだと…!!!!???

ブレイブの神よ!!!!!

俺の何が不満だ!!!!

何が俺に足りない!!!!!

ブレイブだけは誰にも負けないと思ってやってきた俺の何が間違っていた…!!!!!、、

答えろォォォーーーーーーッッッ!!!!!!!」

という気持ちが…なかったと言えば嘘になりますね。

 

ええ、ただの嫉妬です。また一から出直しますよ。今度こそ、ブレイブであいつらに勝ってキョウリュウジャーブレイブになってみせる…!!!!!!

いやでも、マジで正直な所、5人のブレイブを全部足してもまだ、今日の私のブレイブの方が勝ってますけどね…。

ええ、選ばれなかった者の繰り言です。聞き流してください。 

 

さて、本題。 

 

ビッグベア総司令からショウ司令への負の連鎖

前回の時点で、「あれこれ、ビッグベア総司令も仲間を信じられないタイプなんじゃねーの…?」とは思っていましたが、ショウさんを助けて命を落としたビッグベア総司令と、ビッグベア総司令を慕うショウさんに気兼ねして言及はしていませんでした。

そんな…言えない…。

「ジジイ、命をかけて部下を守ったお前の想いは立派じゃ。じゃが、仲間を信じられないお前に総司令を任せるわけにはいかない。」

なんて…ひどすぎて言えない…。どっかで聞いたようなセリフですけど…。私にはそんな事ひどすぎて言えない…。

 

というわけで、リベリオン、見事に負の連鎖してましたね!!

「お前は大丈夫じゃ!おまえならやれる!!!(根拠はない)*1」と仲間に言えない人間の元で育った人間は「お前は大丈夫だ!おまえならやれる!!!」と仲間に言えないのです。

 

仲間を信じられないビッグベア総司令

仲間を信じられないショウ・ロンポー司令

そして今また、ショウさんが“仲間を信じられないバトン”をラッキーに渡そうとしていたのです。(前回の話だけど!)

 

ショウさんが悪いのではありません。ビッグベア総司令が悪いのでもありません。彼らは、悲壮な覚悟で彼らの正義を完遂しようとした/しただけなのです。

しかし、自らの自由な意思に基づかない悲壮な覚悟は、仲間から自由を奪うのです。

だから、ショウさんは宇宙の希望になるという夢を諦めざるを得なかった。自分のために命を落としたビッグベア総司令の遺志に背くことなんて、できるはずがないのです。

 

罪悪感という鎖にがんじがらめになって、ショウさんは自分自身を失った。そして、自分のことを目的達成のための手段としてしか見なくなった。そして、仲間の事も、目的達成のための手段としてしか見ることができなくなり、信じるという事を忘れてしまった。*2

 

ショウさんは目的のために自らの命をなげうつことで、図らずも自分がビッグベア総司令から縛り付けられたのと同じ形でキュウレンジャー達を縛り付ける所でした。

図らずもショウさんは、負の連鎖を繋ごうとしていたのです。図らずもショウさんは、“仲間を信じられないバトン”をラッキーに渡そうとしていたのです。

しかし、ラッキーはバトンを受け取りませんでした。それは、リベリオンの負の連鎖をラッキーが終わらせたということです。

ラッキーはリベリオンの負の連鎖を止めたばかりか、ショウさんの勇気を鼓舞してショウさんは過去を乗り越えました。

………

あああーーーーーーーーーラッキーーーーーーーーー!!!!!!!お前というやつはお前というやつはお前というやつはーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!*3

主人公だ!!!!!!!!!!!!お前が主人公でなくて誰が主人公だ!!!!!!!!!!!!! 

 

子どもという他人 

「 自分が生まれた星を自らの手で守りたい!」という小太郎の夢をビッグベア総司令は一蹴します。

「ダメじゃ!!!!!!!!ボウズ、お前の想いは立派じゃ。じゃが、未熟なお前を戦いに向かわせる訳にはいかない。」

 

というか、ビッグベア総司令、小太郎やラッキーの話を頭っから否定してばかりです。浪平もビックリ、怒涛のバッカモン!です。

 

小「早くあいつを倒さないと!(オリオン号のみんなが太陽に突っ込んで死んじゃう)」
ラ「そうだな!小太郎、お前も手伝ってくれ!」
ビ「ダメじゃダメじゃ!子供に戦わせるなど言語道断!」

 

小「なんでだよ!早く倒さないとオリオン号は…!!」

ビ「黙れボウズ!!!戦いは遊びではない!!!」

 

小「食べてる場合じゃないだろ!早く(敵を)探そうよ!!!」

ビ「バカモン!!!子供は黙っておれ!!!」

 

小「俺もキュウレンジャーになって希望の星になりたい!!!」

ビ「なりたいからと言ってなれるものではないわ!!!」

 

抜き出して並べると、おじいちゃんマジさいてぇ…。

いや、分かるよ、ベアーッ!の気持ちも。小太郎の事、心配なんだよね?

でもさ、二言目には子供子供って、じゃあ小太郎が子供である限り、小太郎のいう事は聞く価値がないの?子供だから言ってることに価値がないの?

 

でも、小太郎が言ってることって全部「その通りー!」なんですよね。

早くしないとオリオン号は太陽に突っ込んで他のメンバー全員死ぬし、焼き鳥食べてる場合じゃないし、小太郎はキュウレンジャーになって希望の星になりたいし。

 

もし、小太郎が言っていることが何かの基準に照らして間違っていたとしても、小太郎にとっては“そう”なんですよね。小太郎にとって“そう”なものを、「わしは“そう”思わんからそれは間違っている!」って言っても、始まらないんですよ。

 

小太郎の“そう”と、ビッグベア総司令の“そう”は違うんです。別々の人間だから、違うのが前提なわけです。“お互いの“そう”が違う”という前提に立った上でどうするのか、なわけです。

でも、ビッグベア総司令は小太郎の“そう”も、ラッキーの“そう”も、ショウさんの“そう”も、全部自分の“そう”に変えてしまおうとしている。変えなくてはいけない、と思っている。

 

ビッグベア総司令のその姿勢に、若き日のショウさんは反発したのです。強制には反発の一択のみなのです。

人を信じられない人間の言う事(強制)には反発あるのみなのです。*4

 

ラッキーはどうでしょうか?

聞きます。そして、認めます。

 

ラ「どうしてそんなに戦いたいんだ?」
小「俺もキュウレンジャーになって希望の星になりたい!」
ラ「希望の星か、すげぇな!」

 

対等なんですね。小太郎の事を、沢山の“そう”を内面にたたえた一人の人間、として見ている。

だから、聞かないと分からないのです。聞く価値があるのです。

子供だろうが、目下だろうが、相手の考えを“正しい”/“正しくない”で裁かない。自分の考えと違っていようがなんだろうが、相手が“そう”思うものは“そう”思うんだから、そこに“正しい”も“正しくない”もないのです。

 

ラッキーとビッグベア総司令の違い

何故、ビッグベア総司令は仲間を信じられないのでしょうか?

それは、怖いからです。信じた結果傷つくのが怖いから信じられないのです。

自分が傷つきそうな出来事が起きるのを未然に防ごうと、他人を変えようとしてしまうのです。不測の事態を避けるために他人をコントロールしようとしてしまうのです。*5

 

具体的に何が怖いかは人それぞれでしょう。

ビッグベア総司令が恐れていることは

“宇宙を救うという目的が達成できない”
“仲間が死ぬ”

あたりですかね。

 

でも、それが嫌なのはラッキーだって同じです。じゃあラッキーとビッグベア総司令の何が違うんでしょうか。

 

ラッキーはそれが起こったとしても、それを「自分のせいだ…やっぱり自分には価値がない」と結論付けない。それだけです。

 

人は起こった出来事に傷つくのではないのです。

その出来事を「自分のせいで起こった、やっぱり自分には価値がない」と意味づけたとき、人は傷つくのです。

 

ラッキーは、“宇宙を救うという目的が達成できない”が起こったとしても「よっしゃラッキー!じゃあ次はこうしたらいいってわかったぜーーー!!!!!」と、前しか向いていないでしょう。

そもそも、ラッキーには“宇宙を救うという目的を達成してる途中”はあっても、“宇宙を救うという目的を達成できない”はないでしょうね。

 

“仲間が死ぬ”が起こって「よっしゃラッキー!」とは言わないでしょうけど(言ったら引く)、仲間の意志を信じているから「俺のせいで…」と下を向くことはないでしょう。

相手の意志を信じるという事は「本人がやりたいこと(ジャークマターをぶっ倒す)をやると決めた以上、死ぬのは覚悟の上だろう。それに対して自分が責任を感じる余地はない」という事です。そしてそれは、ラッキー自身が死ぬのは覚悟の上でやりたいことをやっているから、相手の意志も信じられるということなのです。ヘラヘラしてるようですさまじい覚悟なんですね。まぁ、本人楽しんでやってるんでその覚悟を感じさせませんけど。覚悟してるつもりも本人ないんでしょうけど。

 

とにかく、ラッキーは、何が起ころうと原因探しをしない。

その出来事が起こった原因を探して、その“原因=自分”としないんです。

常に、今自分には何ができるか、しか考えていない。

それが「俺が何とかしてやる!!!!!!」精神なのです。*6

 

仲間を信じる、子供を信じる

ビッグベア総司令は、小太郎やショウさんのことを「未熟、未熟」と言っていました。

小太郎やショウさんが未熟だから任せられない、という理屈です。自分が人を信じられないのは、未熟な相手のせいだ、という意識です。

 

でも、人を信じられないのはひとえにビッグベア総司令の弱さです。

ビッグベア総司令は自分の弱さに向き合えず、人のせいにしていただけだったのです。

自分の敵は、いつだって自分なのです。

 

ショウさんを“未熟”と罵るビッグベア総司令にラッキーは叫びます。

「司令は未熟なんかじゃない!司令のおかげで俺たちキュウレンジャーは9人揃うことができたんだ!ちょっと適当で頼りないけど、あんたがなんて言おうと、俺たちは司令を…信じてる!!!!!!

 

「自分を信じろというのなら、信じるに足る証拠を示してワシを信じさせてみろ」くらいのスタンスでいた総司令は、ラッキーのこのセリフに頭を殴られたような衝撃を感じたのではないでしょうか。

人を信じるのに根拠なんていらないんじゃ…。根拠を欲しがってたのはワシの器が小さかったからなんじゃ…。

 

…と思ったかはさておき、ビッグベア総司令、覚醒。

「(小太郎を襲おうとした敵の攻撃を跳ね返し、小太郎に向かって)希望の星になりたいと言ったな!その気持ちに変わりはないか!ならば、手伝ってやる!!!!

そう。できると思うのならほっときゃいいし、危ないと思うのなら手伝ってやればいいんです。

子供に対して「お前は何も気にせず好きなようにやれ!それで何が起きても俺が全部なんとかしてやる!!」と言えるのが、本当の大人なのです。*7

 

自分の考え(危ないから子供は戦うべきではない)と違う考え(子供だけど関係ない、戦いたい)に出会ったとき、それを自分と同じ考えに変えようとするのは、自他の境界線があいまいな子供のすることです。

子供は、自分と違う考えを自分と同じにすることでしか、自分の考えの正しさを守れないのです。

大人なら、子供の「したい!できる!」という意思を受け止め、人生の先輩として伴走してやればいいのです。*8

 

仲間を信じるとは、仲間の領域に踏み込まないということ。

仲間の領域に踏み込まないってのは、仲間の意志を“正しい”/“正しくない”で裁いて、変えようとしないこと。

 

それがたとえ子供相手であっても同じことです。

子供だって、一人の他者なのです。

子供だから、人生経験が乏しいからと言って、その意志が尊重されなくてもいいことにはならないのです。

 

スーパーヒーローとは

誰だって、子供の頃「子供のくせに」「お前にはまだ分からないだろうけど」と言われて悔しい思いをしたことがあるはずです。

そして、どこかに自分の意見を「子供だから」という理由でしりぞけない大人は、自分と同じ目線に立ちながら自分を守ってくれるスーパーヒーローのような大人はいないのかと夢みたはずです。

ならば、あなたがなるのです。

子供の頃夢みたスーパーヒーローに、あなたがなればいい。

ビッグベア総司令は、そんな大人になったのです。

 

そう!心に愛がなければ、スーパーヒーローじゃないのさ!!!!!*9

 

ラッキーは、リベリオンの負の連鎖を止め、ショウ司令とビッグベア総司令にかけられていた呪いまで解いたのです。

ショウ司令とビッグベア総司令にかけられた呪いとはなんでしょうか?

それは、自分には価値がないという思いです。

それは、自分は夢を追いかけてはいけないという思いです。

それは、自己犠牲がなければ人は自分に価値を見出してくれないという思いです。

そして、罪悪感で相手を縛り、相手の考えを自分の考えと同じものに変えようとする姿勢です。

 

ショウ司令とビッグベア総司令は、自己犠牲の精神で行動しながら、自分を守ろうとしていたのです。*10

ラッキーの仲間を信じる姿勢が、彼らの勇気を鼓舞したのです。

………

あああーーーーーーーーーラッキーーーーーーーーー!!!!!!!お前というやつはお前というやつはお前というやつはお前というやつはお前というやつはーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!*11

主人公だ!!!!!!!!!!!!お前が主人公でなくて誰が主人公だ!!!!!!!!!!!!! 

 

「やっぱりお前は!!!!スーパースターだな!!!!!!!!」

谷原章介さんもそう言ってますので今回はこの辺で。

(おしまい)

 

 

 

▼ガルのアホの子化が激しすぎて、もはやキュウレンジャーのマスコットと化している件について。

*1:根拠を探し始めたら、最終的に「やめとけ」にしかならない

*2:何度も言うけど、そんなショウさんが悪いと言いたい訳ではない。ショウさんがそうなってしまったのは仕方ない。やり方は間違っているけど、宇宙を救いたいという想いに嘘はないし。ただ、その夢を楽しむことが許されない、という罪の意識があっただけ。それが結果として仲間を信じられないという態度に繋がる。結局、自虐は他虐なんです。

*3:魂が鳴動したので3回言いました。

*4:過去記事の キュウレンジャー第6話「はばたけ!ダンシングスター!」感想 ールールや努力は“善”ではないのか?ー - gentle avenger の冒険 や キュウレンジャー第2話「いくぜっ!怪盗BN団」感想 -人は自分を信じる人間のことを裏切れない- - gentle avenger の冒険 参照

*5:矛盾しているようですが、境界線が希薄で、人の領域に踏み込んで「ああしろこうしろ」言ってしまう人間は、人に対して心を閉じています。傷つくのが怖くて心を閉じているのです。

人に対して心を開いている人間は、相手の領域に踏み込む真似は絶対にしません。

*6:大人は子供に期待するな、覚悟を決めろ ーラッキーの言動が私の魂を揺さぶる訳ー - gentle avenger の冒険 参照

*7:大人は子供に期待するな、覚悟を決めろ ーラッキーの言動が私の魂を揺さぶる訳ー - gentle avenger の冒険 参照

*8:「だけど、それをするとこういう問題が起こる。それはどうする?」と、助け舟を出すとかね。

*9:言いたいだけ

*10:「自分には価値がない」と思うことを避けるための自己犠牲だった。

*11:魂が鳴動したので5回言いました。

ACは“自己肯定感”を獲得しなければならないのか?

えー。三十六です。
ここ最近考えていたことに一応の結論がでたのでまとめたいと思います。
私は思考を文章に落とし込むことが苦手なので、ウンウン唸って考えながら書いた今回のエントリはいつもと文体が違いますけど、読んでね♡

 

■私の中の荒れ野■

私が、親との関係のいびつさに気付いたのは大学に入学したばかりの頃だった。

 

“AC(アダルトチルドレン)”とか“毒親”とか“自己肯定感”とか“境界線”とか、そういう概念も何もない所から、“生きづらさ”を抱えつつ五里霧中で自分と向き合い続けた。

何かを一つ克服したと思ったらすぐまた次の“直すべき自分の欠点”が見つかる。いたちごっこだ。

向き合っても向き合っても報われない。

 

物心ついた時には既に荒らし尽くされていた果てしない荒れ野を耕しているかのような感覚だった。

そして、恐らく、私は一生この荒れ野を開墾し尽くすことはできないだろうと思っていた。

それでも、開墾し尽くさねばならないと思っていた。

 

■ACは変わらねばならないのか■

先日、Twitterを通して知り合った友達とDMで会話した。

親との関係に苦しみ、その苦しみを乗り越えようとしている同志だ。

友達との話の中で、私は「毒親に育てられた人間の一応の“あがり”は、自分自身を生きられるようになる事だと思う」と言った。

自分自身を生きた所で、悩みや迷いから完全に自由になれる訳ではない。だから、“あがり”ではない。しかし、自分自身を生きていない状態より圧倒的に楽だ。私は、生い立ちで苦しんできた人間には楽になって欲しいと心から思っていた。だから、一応の“あがり”と表現した。

でも、自分の発した言葉にずっと引っかかっていた。

 

“あが”ってない人は変わらないといけないのか?楽になるため、より幸せになるため、変わらなくてはいけないのか?

私は友達に楽になれるだけ楽になって欲しい。でも、私は今のままの彼女が今のままで好きなのだ。大好きだ。変わっても変わらなくても大好きなんだ。

 

私は開墾しつくさねばならない、と愚直に自分の中の荒れ野を耕していたけれど、必要なのは荒れ野を耕すことではなかった。それはきりがない上に、「自分は変わらねばならない人間だ」という強烈な自己否定に基づいている。

私に必要だったのは、野を荒らした竜巻への憎しみを手放し、荒れ野で構わない、と心から思う事だった。そう思えた瞬間に、一生終わらないと思っていた私の開墾は終わった。

 

永遠に達成できないと思い込んでいた荒れ野の開墾は、「そもそもする必要がない」ということに気付いた瞬間に終わるものだった。正直「そんな裏技みたいなクリア条件があるか、難易度設定見直してこい」という気持ちだ。

そして、「この裏技みたいなクリア条件を共有して、意地の悪いゲームに翻弄されている同志の役に立ちたい」と思った。

 

でも、やっぱりそれは違っていた。


■“自己肯定感”を得るという目標設定■

自分自身を生きる、という感覚が腑に落ちた私は、派生的に色々な概念も腑に落ちていることに気付いた。

 

「さんざん理解しようとしても理解しきれなかった“自己肯定感”や“境界線”、“自己受容”、“自己効力感”、“アサーティブ”…等々とはこういう事だったのか」と、今の自分の内面の在り方を眺めることで理解した。

“自己肯定感”や“境界線”というものは、努力で理解して手に入れるものではなく、ものすごく楽な状態になった結果、発生するものだということが分かった。*1

“自己肯定感”や“境界線”というものは、段階的に手に入れていくものではなく、心の在り方が抜本的に変わった結果、発生するものだったのだ。*2

 

私が理解しようとして理解できなかった概念の数々は、一つ一つ別々の状態を指しているのではなく、ものすごく単純な心の在り方を、色々な角度から説明したものに過ぎなかった。全て同じ心の状態を説明したものだったのだ。

そして、そのものすごく単純な心の在り方は、メンタルヘルスの領域だけではなく、様々な創作物やビジネスマインド、自己啓発、スピリチュアル、宗教…等、ありとあらゆる領域で説明されているのだった。*3語る言葉は違えど、驚く程みんな同じ事を言っている。

 

■ “自己肯定感”とはみんな当たり前にもっているものなのか?■

自分自身を生きるようになると、自分自身を生きている人間が分かるようになる。

そこで私は再び驚いた。

「周りにそんな人間誰もおらへんやんけ」ということである。(※ 除くネット)

 

私が33年間生きてきて出会った人間の中で「あの人は自分自身を生きていた」と思い当たるのは一人。「多分自分自身を生きてただろう」まで含めて二人だ。

私が出会ってきた人間の数が相場より少な目だと仮定しても(引きこもってた時期もある)、なかなかのレア度である。

 

…あれれ~?

 

傷付いたACが回復する過程で身につけるべき“自己肯定感”や“境界線”は、“普通”の人はみな身に付けている思考形態ではなかったのか?

それを理解して、それを人間関係の中で使いこなしてやっと“一人前”、やっと“マトモ”、やっと“普通”…ではなかったのか?

“普通”に見える、“普通じゃない”自分とは違う、自信に満ちて、何の悩みも持たず輝いているように見えていた他人は、“自己肯定感”や“境界線”という作法を身に付けているのではなかったのか?

 

私が勝手に見上げていた“私以外の普通の人”は、“自己肯定感”や“境界線”など持っていない、私と同じ苦しみを抱えた人間だったのだ。

 

“自己肯定感”や“境界線”を持った人間、自分自身を生きている人間は、大概“何者か”になっているので身の周りにいない。(“何者か”になっている=夢を叶えて、自分のフィールドでバリバリやってる。)

そして、自分自身を生きてる人間は、大概自分自身を生きてる人間と付き合うので、ますますエンカウント率が下がる。(自分自身を生きてる人間は、自分自身を生きてない人間と話が合わない。)

稀にエンカウントしたとしても「あの人はエネルギッシュで人とはちょっと違うなー。憧れるけどなりたいとは思わないかなー(あんな風になって人からこんな風に思われたくないし)」みたいな感じになるので、まさかその人の在り方が“自己肯定感”や“境界線”を実現したものとはゆめゆめ思わない。

 

つまり、“みんなもってるはず”の“自己肯定感”や“境界線”を獲得しようにも、そのロールモデルとなる人間が身の周りにいなかったのだ。

にも関わらず、私は身の周りの人間全員がロールモデルだとどこかで思い込んでいた。ロールモデルを完全に見誤っていた。

 “自己肯定感”や“境界線”を身に付けている人間というのは、なかなかいるものではなかったのだ。

 

多くの人は、ACだろうがそうでなかろうが「“自己肯定感”や“境界線”?何それ?」状態で、弱い自分を抱えながら、なんとかかんとかやっているのだった。*4

 

■精神的な資本を持った階層・持たない階層■

ACを支援する立場にいて、かつ有効な支援を続けられている人というのは、まぁ大概自分自身を生きてる。

そして、自分自身を生きてる人間の周りには自分自身を生きている人間が集まっている。

ACが負の連鎖で生まれるとすれば、自分自身を生きてる人間は正の連鎖で生まれると言っていいだろう。中途覚醒する人間もいる。*5

 

なんで、多分だけど、ACに向けて「自己肯定感を身につけよう。境界線を引けるようになろう。そうすれば楽になるよ!」と応援してくれている人は、己の特異性に無自覚な所があるのではないか。

自分自身を生きている人間の周りには当たり前にいる“普通の人”は、ACの周りにはほぼ存在しない“超人”なのだ。この認識の齟齬から、私の「“自己肯定感”や“境界線”は“普通”身に付けているもの。身に付けていて当たり前のもの」という勘違いは生まれたのではないだろうか。

ACの環境では、自分自身を生きている人間を目にする機会自体がほぼ0なのだ。自分自身を生きている人間の特徴を聞いても「あぁ、あの人みたいな感じね」とならない。「未知なる生物の話を聞いているようだけども、それは周りの人間皆が持っている性質らしい…。そうは見えないが、そうらしい…。」と混乱する。

 

私は、ロールモデル不在の環境で、ロールモデル選定を誤ったまま、延々と「“自己肯定感”とは…“境界線”を引くとは…」と頭を悩ませていたのだった。*6


■難易度の高すぎる目標設定■

だから、ACに「“自己肯定感”や“境界線”を身に付けたら楽になるで!」というのは、大きく見れば確かにその通りではあるけど、少し一足飛び過ぎるのではないか。

 

「絵がものすごく不得手だけど、漫画を描きたい!」と思って『漫画の描き方』という本を手に取ったら「出版社に持ち込みましょう、プロになれます」と書いてあるようなものだ。

まずは「絵が描けるようになりましょう」な訳で。その後「漫画が描けるようになりましょう」な訳で。漫画を描けるようになって、プロを目指すなら「その意気やよし、やれ」って話な訳で。

漫画を楽しんで描いてるのなら、プロにならなくてはいけない訳ではない。WEB漫画としてネットで発表することや、同人誌を発行して即売会で売ることが、プロとして漫画を描くことに劣るわけではない。
そこに優劣はない。本人がどうしたいのか、という違いがあるだけだ。

 

ACもそれと同じで、みんながみんな“自己肯定感”や“境界線”を獲得しなくてはいけない訳ではないのではないか。

 

あまりに生きづらい要素(依存症など)が小さくなってきて、人との関わりの中で生きていけるようになった。たまに自己嫌悪で落ち込んでしまうけど、気付けば最近よく笑っている。

ACがそこまでくるのにどれ程の努力と苦労と挫折と絶望を要するだろうか。“自己肯定感”や“境界線”は得ていない。でも、素晴らしい。


そもそも依存症だって当人(の精神機序)が必死で生きようとした結果だ。それがあるから生きてこられたのだ。何かに依存しているという事は、辛い現実があっても生きようと必死に戦ってきたということなのだ。

本人は意識の上では行き辛さを抱えているかもしれない。しかし、現状におけるベストをつくしているのだ。それもまた、素晴らしい。

 

“自己肯定感”や“境界線”を獲得する。それは素晴らしいことだ。そして、それらを獲得していない人間もみな同じように素晴らしい。変わらなくてはいけない人間なんて、一人もいなかったのだ。

どの在り方がよくて、どの在り方が悪いという話ではなかったのだ。

 

「自分はどうありたいか」だけだ。「今の自分はもう既に素晴らしい。それでもやはり自分自身を生きたい」というのなら「その意気やよし。やれ」って話だ。

 

自分自身を生きるようになるには、自分の弱さと向き合う必要がある。

その恐怖(速攻で脳がそれをしなくていい“合理的な理由”を吐き出すレベルの恐怖。恐怖していることを自覚する事さえ難しい恐怖。)を乗り越えるデメリットよりも「よりよい自分を生きたい」という思いが強ければやればいいし、「やっぱ怖いから無理」というのならやらなければいい。

やってもやらなくても素晴らしいのだから、好きな方を選べばいいのだ。

 

そして、どちらを選んだとしても、それがその人のベスト(幸せ)なのだ。*7


■“癒しの途上”にある人への配慮は必要か?■

私はネットで“許し”について発言するとき「今はまだ“許し”どころではない人を傷付けるのではないか」という不安があった。

 

私の「許そう!!!!!!!」という言説で誰かが傷つくことを心配していた。過去の私が「憎い相手は許すしかない」という言説や「トラウマは存在しない」という言説に傷付いたように。

しかし、私には同時に「でもそれってなんかちょっと失礼な考え方なんでは…?」という思いもあった。


私が“回復”の糸口を見つけたくて先達のblogを必死で読んでいた頃、あるblogで「〇〇の話は聞きたい人もたくさんいるんだけど、それを書いたらまだ傷つく段階の人も沢山いるから簡単には書けない」と書かれているのを目にした。

私は「気遣ってくれるのはありがたい。けど…」と複雑な気分だった。

それを今の自分に必要か必要でないかを決められるのは私だけだ。勝手に自分の“回復具合”を計られて「あなたにはまだ早い、あなたにはまだ無理」と決めつけられるのは何かが違う、と感じた。

 

■人の“トラウマ”は私が避けてあげなくてはならないものなのか?■

「『トラウマは存在しない』という考えがトラウマの再演となる」という考えについても同じだ。

 

本来的にトラウマとは、命に係わる体験によって引き起こされるものだが、一般に、そこまでの体験によるものではない心の傷もトラウマと称されている。

自己肯定感が極端に低いと、自分で自分の辛さを認めることができない。命に係わらない体験による心の傷をトラウマと称するのは、辛さを自分で認めきれない分、それを先鋭化した言葉で補いたいという心の現れだろう。

命に係わらない体験による心の傷をここではカッコつきで“トラウマ”と表現することにする。

 

もちろん“トラウマ”はないに越したことはない。*8

が、“トラウマ”は人が生きるための機序なのだ。“トラウマ”があることで、自分が傷つくであろう出来事・人・場所から距離を置くことができる。

“トラウマ”はその人(の精神機序)が生きるために作り出した盾なのだ。

一番避けるべきこと(精神的/肉体的 死)は“トラウマ”によって避けられている。

“トラウマ”は生きるための手段であって、それを避けることが目的ではないのだ。

 

■人を信じるという事■

“未だ回復の途上にある”“傷の癒えきっていない”人間にも、自分で衝撃を処理する能力がある。

それは、意識のレベルの話だけではない。無意識的な反応も含め、生きていく力があるということだ。

今の自分にとって有害な意見・不要な意見に触れたとき、「この意見は間違っている」と耳をふさいででも自分の心を守る機序が人間には備わっている。*9そして、事実、今のその人にとってその意見は間違っている。

この先、その人のその意見に対する評価は変わるかもしれない、変わらないかもしれない。どっちでもいい。

 

全員が数直線のように決まった“回復の道”を歩いているわけではないのだ。“先達”も“未だ道半ばの人”もいないのだ。

自分が「遥か後方を歩いている」と思い込んでいる人がひょんな所から自分の立っている所にやってきたりするかもしれないし、ふと気づくと斜め上空にいるかもしれない。その座標に価値や意味はない。

 

何が“正解”で、何が“間違い”というわけではないのだ。全部“正解”なのだ。


自分の出した結論はすべて提示する。その要不要を選別するのは見る人に任せる。見た人の、自分で衝撃を処理する能力を信じる。そして、その人の出した結論が自分と違っていても尊重する。*10
それが、相手が自分とは別の一個の人間であることを認めることであり、相手が自分とは違う考えを持っていることを認めるということであり、相手の事を尊重するということだろう。

 

「今はまだ“許し”どころではない人を傷付けるのではないか」と、“人の事を心配していた”私は、単に自分の“正解”とは別の“正解”を尊重するだけの心の準備ができていなかっただけだったのだ。

よ・け・い・な・お・せ・わ ♡ ( ^o^)σ ツンッ♡

 

余計なお世話焼いてないで、(自分も含め)みんな好きにしろ!ってことだったのだ。

 

■“人と比べる”に潜む毒■

自分とは別の“正解”を尊重できないのは、人と自分とを比べているからだ。

比べると、上下が生まれる。

比べるとは、どちらかを否定してどちらかを肯定する、という事だ。どちらかしか“正解”にならない。“正解”じゃなかったほうは“間違い”だ。

 

比較によってでてくる「あの人はすごい!」は、その後に「それに比べて私は…」がっついてくる。それは、自分を否定して相手を肯定しているということだ。

自分を否定することでしか相手を肯定できない人間は、自分を肯定する時に誰かの否定を必要とする。

私の“正解”が成立するためには、“間違った”誰かが必要なのだ。

 

人と自分を比較しているうちは、「みんな“正解”」という意識にはなれない。

人と自分を比較している限り、“正解”を得ることができるのは、自分か相手のどちらかだけなのだから。

 

誰かを否定して得られる自己肯定はお手軽だ。手軽に得られる自己肯定は魅惑的だ。しかし、それは甘美な毒だ。

その毒に侵されている限り、自分以外の人間は全員、“正解”をめぐって戦うあなたの敵であり続ける。その毒に侵されている限り、人と繋がることはできないのだ。

 

そもそも、自分よりすごい人間だけがすごくて、自分よりすごくない人間はすごくないのか?それはあまりに傲慢なものの見方だろう。自分がどんだけのもんだというのだ。なんですごいかすごくないかの指標が全部自分なんだ。

自分と比べてどうこうではない。みんなすごいのだ。

 

■結論■

みんな違ってみんないい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

みんな違ってみんないい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

(おしまい)

 

ー追記ー

このエントリの内容をまとめた?ツイート貼っときます。

  

( ^o^)σ ツンッ♡

*1:逆に言えば、それを突破口にして、ものすごく楽な状態に行き着く事も可能なのかもしれないが。

*2:“自己肯定感”や“境界線”で何を表したいかにもよるけど。自分自身を生きる、という状態は、自分自身を生きてる/自分自身を生きてないの二択しかない。“割と自分自身を生きてる”という状態はない。こればっかりは0か100だ。

*3:スピリチュアルとかは毛嫌いしてたので詳しくないけど。今ちらちら読んでみる限り、同じことについて語っている。

*4:それに気づくと同時に「何の問題もないように見えても、意外とみんな親との確執に悩んでるんだな。」という実感も持った。

*5:私が特撮好きなのは、その中途覚醒をデフォルメした話が特撮に多いからだ。(もちろんアクションとかデザインとか他の要素も好きだけども。)特撮に限らず、熱い展開というのは中途覚醒を描いている。

*6:ちなみに、ロールモデルがゴロゴロいる場所がある。漫画やアニメなどの創作物の中だ。主人公は自分自身を生きているキャラクターとして描かれる事が多い。キュウレンジャーのラッキーは明確に“それ”として描かれている。

*7:当人が「自分は不幸だ…最悪だ…」と思っていたとしても。

*8:ちなみに今の私は「自分に“トラウマ”はない」というスタンスで生きているが、それは「私に“トラウマ”はある」と考えて生きる人間の“トラウマ”の存在を否定するものでも、その人の辛さを否定するものでもない。

*9:今の自分にとって有害な意見・不要な意見に対して脳が即座に“この意見を拒否する合理的な理由”を吐き出すのは自分を守るためだ。逆に言うと「毒親問題は親を許したら終わるよ!」と言われて「毒親を許せかぁ…ふーんなるほどねぇ…。まぁ、絶対許せないけどね…。」位のテンションで聞ける人は、心の中では許す準備が整ってるってことだ。あとは、自分がどうするのか、どうしたいのかを決めるだけです。

*10:ちなみに、たとえば、「お前の意見は間違っている。有害だから取り下げろ」という意見を受け入れることが相手の意見を尊重するということではない。相手の意見を尊重するとは「なるほど、今のあなたはそういう結論なんだね」と違いを認めて、それを否定も肯定もしないことだ。

キュウレンジャー第8話「司令官ショウ・ロンポーの秘密」感想 ーキュウレンジャーの語り手は信頼できるか?ー

ウィ、シェフーーーーーーーーッッッ!!!!!三十六でーーーーーす!!!!!!!

くしゃみをするたび負傷した右肩に痛みが走る!!!!!!
「ブエーーーークショィイギャァァァァッァァァァッァァ!!!!!!!!!!」
くしゃみで暴走を始める邪気眼!!!!いや、邪気右肩!!!!!!!私は片膝をつき、暴れる右肩を左手で押さえこんで言う!!!!!!
「頼む…収まってくれ!!!!!!!ウッ!!!!!くる!!!!!!!!耐えてくれよ…!!!!俺の右肩…ブエーーーークショィイギャァァァァッァァァァッァァ!!!!!!!!!!」

さぁ、順番がちょっと前後しましたけど、第8話の感想?を書いていきたいとオモイマーズ!!!!!!


スパーダとショウさんの来歴

第8話で、スパーダの身の上/来歴が明らかになりました。

スパーダ

  • カジキ座系出身
  • ジャークマターに支配された故郷で、子供の頃からお腹を空かせた弟妹のために料理を作っていた
  • 宇宙一のコックになるため宇宙各地を冒険していた(公式HPキャラクタープロフィール)


これで、来歴が明らかになっていないのは、ラッキーとショウさんだけになりました。
が、ショウさんの来歴は第9話で明かされます。第8話の感想と銘打っといて第9話の話を持ち出すのもどうなんだって話ですけど、誰も私にそんな厳密さは求めてないと思うので気にせず行くぜ行くぜ行くぜ行くぜーーーーーー!!!!!!

えー。つまり。第9話の時点で、来歴が明らかになってないのって、ラッキーだけなんです。
ラッキーって、現時点では

  • シシ座系出身
  • 宇宙の果てを見るために旅をしていた

以上の身の上/来歴が明かされていないんです。

ラッキーのプロフィールって性格の事ばっかりで、スパーダ、ハミィ、チャンプに出会う前の事に関しては“シシ座系出身で宇宙の果てを見るために旅をしていた”しか分かってないんですよ。


主人公の背景が見えてこない

登場するキャラクターが沢山いてなんか有耶無耶になってますけど、このラッキーの“正体不明さ”って結構な異常事態だと思うんですよ。

もちろん、物語ががある程度進んでからラッキーの身の上や来歴を描いていくために保留してるってだけなのかもしれません。

でも、気になるのは「なんで物語はラッキーの視点で始まらなかったのだろう?」って所です。

キュウレンジャーという物語は、“既にキュウレンジャーとして覚醒しているスパーダ、ハミィ、チャンプが惑星クロトスでジャークマターと戦っている所に、マシンが壊れたラッキーが降ってくる”所から始まりました。

物語の始まりをラッキー視点に変えてみますね。
“よっしゃラッキー!俺ラッキー!宇宙一ラッキーな男だ!宇宙の果てを見るために旅をしてるぜ!あれっ?マシンの調子が…うわぁぁぁ〜!!!なんだお前ら?面白そうな事してんな!よっしゃラッキー!俺もキュウレンジャーになる!!!”
ほら、別にラッキーの視点で始まっても問題ないんですよね。どっちかっていうと、主人公の視点で始める方が定石なんではないでしょうか。

どっちの視点で始まっても問題ないのに、あえて定石をハズしているのにはなにかしら理由があるはずです。
私が思いつく理由は2つ。

  • ラッキーというキャラクターを強烈に印象付けたかった
  • キュウレンジャーの語り手は信頼できない


信頼できない語り手

“信頼できない語り手”という言葉があります。
叙述トリックの一つで、えーっと…なんて説明したらいんだろ…えーえー…要するに “犯人はヤス” ですよ!!!!!!「えー!お前が嘘ついてたら前提がひっくり返っちゃうじゃん!信じてたのにバカバカ嘘つき!」ってヤツですよ!!!!「ほら、アレが“信頼できない語り手”だよ!」って具体的に例を挙げていう事自体がネタバレになるからなかなか「アレだよ!」って言えないんだよ!!
えっ?公式HPのネタばらしに激昂しといて“犯人はヤス”はいいのかって?“犯人はヤス”位は言ったっていいだろうが“犯人はヤス”位はーーー!!!!!(ネタバレ連呼)

えーつまり、“信頼できない語り手”とは、物語を語る人間が、物語の重要な秘密を隠して物語を語ってる、という叙述トリックを指す言葉です。信頼できない語り手は、通常、物語に登場する人物ですが、今回それは物語の外の語り手(キュウレンジャーだと脚本家かな?)とします。*1


キュウレンジャーミッシングリンク

さて。キュウレンジャーという物語が、スパーダ達の視点で始まることで可能になる事とはなんでしょうか?


一つは、ラッキーを客観的な視点(スパーダ達の視点)で描く事で、ラッキーのキャラクターをテレビの前のみんなに強烈に印象付けられるということ。
もう一つは、ラッキーの来歴を語ることなく物語を始動できるということです。

“よっしゃラッキー!俺ラッキー!宇宙一ラッキーな男だ!”で始まる物語は、ある程度ラッキーの身の上や来歴を語らないと成立しないわけです。

“よっしゃラッキー!俺ラッキー!宇宙一ラッキーな男だ!宇宙の果てを見るために旅をしてるぜ!あれっ?マシンの調子が…うわぁぁぁ〜!!!なんだお前ら?面白そうな事してんな!よっしゃラッキー!俺もキュウレンジャーになる!!!”

ほら、これ読んで「いや、なんで宇宙の果てを見るための旅をしてんだよ、てかそもそもお前誰だよ。」って思いませんか????
えっ?思いません?ああそう。

“ボンジョルノ!!僕はスパーダ!宇宙一のコックになるために宇宙を冒険しているのさ!僕は目の前でお腹を空かせている人を放っておけない!ジャークマターの支配下にあった故郷で、お腹を空かせた幼い弟や妹達にご飯を作っていたからね!僕の夢は料理で宇宙を救うこと!Si!それが宇宙一のコックになるってことさ!あれっ?あの星で争い事のようだね、いってみよう!”

ほら〜。主人公視点で始まるなら、この位説明がなきゃ違和感ありありでしょ?
この説明なしで物語を始動させるための巧妙な工夫が、スパーダ達の視点での物語冒頭って気がしてきませんか?
通常なら物語の核となるべき、主人公の背景がエアポケットとなっている異常事態を、巧妙に隠せるのが、スパーダ達の視点での物語冒頭って気が、して、きま、せん、か…?
えっ?してこない?ああそうもういいよ。

 

スパーダ達の視点で物語を語り始めた語り手は、果たして、信頼できるのでしょうか?

スパーダ達の視点で始まったことによって発生した空白、それは、本当にただの空白なのでしょうか?


もう一つの謎

キュウレンジャーには、もう一つ、明かされていないものがありますね。
ドン・アルマゲの正体です。

「正体って言ったって、ドン・アルマゲ、まだほとんど出てきてないし…」ですよね。
でも、考えてみてください。ジニス様みたいに出てくるときはいつでも顔出しオッキュー♡なラスボスもいるのに、なんで初手から“誰も真の正体を知らない”とか言ってるんですか。なんでめっちゃフード被ってんですか。

その正体を視聴者にも隠してるってことは、ドン・アルマゲは視聴者の知ってる人間の延長線上にいる人物ってことなんじゃないですか?
アゴの下までフード被ってるのは、登場人物の中に、ドン・アルマゲの顔を見たら「あっ!えっ?」ってなる奴がいるって事なんじゃないですか?もしくはドン・アルマゲの顔を見たら視聴者が「えっ?」ってなっちゃうって事なんじゃ?

ほら、キュウレンジャーって、今の所、物語の一番大事な所にいる2人(主人公とラスボス)が正体不明なんです。
これって異常事態じゃないですか?


アレは単なるラッキーなのか伏線なのか

第1話で、ラッキーがスパーダ達に自己紹介するシーンで、ラッキーはジャークマターのことを初めて聞いたという顔をしていました。
さすがラッキー!俺たちに起きないラッキーを平然とやってのけるッ!そこにシビれる!憧れるゥ!という訳です。

でも、ジャークマターが全宇宙を支配下に置いているあの世界で、生まれてこのかたジャークマターを見たことも聞いたこともないなんてこと、あり得るんでしょうか…?

多分、ラッキー は 嘘ついてないと思うんですよ。ドン・アルマゲのことを「チョンマゲ!?」って言ってたのも、素だと思います。なぜって、ラッキーは嘘をつける男じゃないガル!!!!!(ラッキーの犬)*2

 

正体不明のラッキーと、見た目と正体が不明のドン・アルマゲ。
ジャークマターを知らなかったラッキー。
これらの点を繋いでできる線の数は限られています。

 

ドン・アルマゲとラッキーは

  1. 親子(父と息子)
  2. 兄弟(兄と弟*3
  3. 双子もしくは分身

 

こんな所でしょうか。*4

ラッキーがジャークマターを知らず、宇宙一ラッキーだった理由…。ジャークマターがラッキーを守っていた…?

ジャークマターが集めているプラネジウムの利用目的とは…?チキュウは何故ジャークマターにとって重要なのか…?

 

正直、どこまでが判断材料として適切かがわからない中での考察なので、結論としてはハッキリしません。

ドン・アルマゲとラッキーに血縁関係(若しくは分身)があって…複雑な間柄で…敵には敵の正義があって…敵と思ってたら自分(肉親)で…みたいなのをキュウレンジャーでやるのか?って考えたら「しねぇだろ」としか思えませんよ私だって。

熱く愉快なキュウレンジャーで突っ走って欲しい。

 

のに、なんか不気味な空白がポコポコ空いてて気になるんですよね。

まぁ、第10話…はちびっ子戦士が出てくるみたいだから置いとくとして*5、第11話でいきなりラッキーのお母さんとかが出てくるかもしれませんけど。

 

ああぁ〜〜〜このラッキーのエアポケットをどう調理するのシェフ〜〜〜。寝かせてあるだけなの?それとも爆弾仕込んであるの?

どっち?ねぇ、どっちなの〜〜???????

 

乞うご期待!!!!!!

 

ウィ、シェフーーーーーーーーーッッッ!!!!!

(おしまい)

 

追記

ラッキー視点で始まらない理由、もう一個考えられるね。

  • 第1話でラッキー参戦〜ガル参戦までを描く必要があったから、ラッキーの来歴を説明するだけの尺が取れなかった

やっぱ考え過ぎか〜。(4000字書いた結論)

 

 

▼この考察が合っていたら私を褒めたたえてくれ!!!!!!!!!!!!

*1:「物語の作者が信頼できない語り手…それってつまり、単なる叙述トリックなのではなイカ?」とか言わない。

*2:これが日曜朝の戦隊モノでなければ、ラッキーが嘘ついてるってのもアリな展開だと思いますが、ハッキリ言って私はそんなキュウレンジャーは見たくありません。捻らず王道で私を打ちのめして欲しいのです。

*3:ドン・アルマゲの声的に年上っぽい

*4:顔出したら即バレるって点ではドン・アルマゲ=スコルピオも考えられますが、ちょっと時系列的におかしいかな、と。

*5:楽しみ〜〜〜!!!!!!!!!