gentle avenger の冒険

キュウレンジャーの感想を心の話を軸に書いてます!セイ!ザ!チェンジ!!!!

キュウレンジャー第6話感想 +α ールールは卑怯さを引き出すー

バーニングスター!!!!!三十六です!!!!!!!!!

第6話についてまだまだ書きたいことがあるので、追加で第6話感想です。

第6話感想本編はこちら。

 

gentle-avenger.hatenablog.com

 

雑感

キュウレンジャーを見ていて、作品がどれだけ素晴らしいものになるかは、作り手が受け手を信じた量によるんじゃないかと思ってきた。

作り手が「俺がこの作品で描きたかった事は見た奴に必ず届く!」と受け手のことを信じれた分だけ、作品は輝くのではないかと。

だから、受け手の目線で創作できる奴は強いのかもね。「自分の作品、描いててワクワクするゥ!!!!他の奴は知らん!!!!!俺によし!!!!!!!!!」タイプの作り手。

 

あと、ラッキーのまっすぐなテキトーさもいいけど、ショウさんの食えない感じのテキトーさもいいよね!!!!!

ショウさんのテキトーさは、上司のテキトーさって感じがするよ。テキトーなのが返って腹決まってる感。

これで、ショウさんがキュウレンジャーの為に必死になる『嘘つきショウさんの真っ赤な真実!』みたいな回があったらあたしゃ一撃で落ちて「惚れたで!!!!!!!!!!、ショウさん!!!!!!!、!」ってなる自信があるよね。
怖いわー!これ以上キュウレンジャーに気持ち持ってかれたらどうなっちゃうのか怖いわー!!!!!!キュータマ覚醒して「うちゅういち~~~~~~~!」ってテイクオフするかもしれん。

 

ちなみにラッキーが最初っからあのキャラじゃなくて、苦しみの中からあのキャラを獲得した…みたいな過去があったとしたら、私はもう胸が熱くなりすぎてスーパーノヴァ死する。

そうじゃなくてナチュラルボーンテキトーだったとしてもそれはそれで軽くていい!!!!!!!!!!!もうなんでもいい!!!!!!!!!!!!!!!!!キュウレンジャー最高!!!!!!!!!!

 

ルールについて+α

感想本編では、「ルールってのはそもそもアレ。」ってことを書きました。

その後もルールについてポツポツ考えてたので、もう少しルールについて書いていくよ!!!!!!オッキュー!!!!!!!


ルールは怯えを刺激する

誰でも、一度はルールを運用する側に回ったことがあると思います。

兄・姉として、学級委員として、職場の先輩として、親として…。

 

ルールを運用する側はもちろんルールを守ります。運用する側が守らないなんて、示しがつきません。

所が、ルールを適用される側は往々にしてルールを守れません。

「ルールなんて無駄!」、「ルールを守るなんてかったるい!」からではありません。ルールの持つ意味を理解して、ルールを適切に守るほど、理解力がないのです。

それは、年齢的なものかもしれないし*1、仕事に慣れていないからかもしれない、緊張していてルールの話を聞けてなかったかもしれません。。

 

なんにせよ、ルールを守れない何がしかの事情があるのです。

それが、「ルールなんて守らねぇよ!!!」という意志のもとになされた時でさえ、そこには事情があるのです。

その事情が何かはわかりません。専制君主的な親に育てられて自己防衛が習い性になっているのかもしれませんし、ルールを守っていじめられた経験があるのかもしれません。具体的に何かはわかりませんが、そうなった事情は必ず存在します。事情(原因)が存在せずに、“ルールを守らない”という結果だけがぽっかりと存在しているなんてありえません。事情は必ず存在します。

 

所が、ルールを運営する側は、ルールを守 れ ない(not守らない)相手を見て、自尊心がグラつきます。

「俺は守ったのに、お前は守らない?俺はしたくもない“ルールを守る”をして損してるのに、お前は損しないのか?俺に価値ないって言いたいのか?」

三段跳びで例の「俺には価値ないんかーーーーーーーーい!!!!!!!!」に到達しました。自己肯定感が低いとは、どっからでも「俺には価値ないんかーーーーーーーい!!!!!!!」という結論に持っていく!!それがどんな無茶でもその結論に持っていきまくる!!!!!!!という状態の事を言います。

 

自尊心がグラついた人間のすることは一つです。

怒ります。

 

ただ、「ルールを俺だけ守ってたら自分だけ損したような気持になって悲しくなるんだーーーー!!!!!!」みたいな怒り方はしません。そこまで自覚していれば人は怒りません。
怒った人間はほぼ確実に「お前がルールを守らないからいけないんだ!!!!!」と、相手を責めます。*2

 

「ルールを守らんかい!!!!」と怒られた側は、自分への侵略行為に対して反発します。

ここまで来たらもう二択です。

  1. 強制に反発してルールを守らない。
  2. 反発を抑え込んでルールを守る。(そして、ルールを守っていないほかの人間を責める。→ふりだしにもどる。)

 

“ルールを作ってそれを守る”というシステムは、人の怯えを刺激します。

怯えた人間は、自分だけに都合のいい言動で自分を守ろうとします。それが、“卑怯”ということです。*3

つまり、“ルールを作ってそれを守る”というシステムは、人の卑怯さを引き出してしまう。

相手の事情を見る目を曇らせて、自分の事しか見えなくさせてしまうのです。

 

集団を維持するためのシステムは、怯えを刺激して卑怯さを引き出すものではなく、勇気や覚悟を喚起するものであって欲しいわけです。

れいごとに聞こえるかもしれませんが、結局はそれが一番、ローコストで集団を維持していける方法だと思います。

 

 

ルールが生み出す勘違い

とはいえ、程度問題なんじゃねーの?という感じもします。

ルールでギチギチに縛るんではなく、それぞれの事情を考慮して、花も実もあるルール運用をしたらええやないか、と。

もちろんそれができればオッキューだし、ルールってのはもともとはそういうものなんだとは思います。

が、それがなかなか難しい。


ルールは、運用する側に、適用する側との関係性を勘違いさせます。そこに上下関係があると錯覚させるのです。*4
自分はルールを運用する側だ、と。相手は自分では何も考えられない、考えたとしても間違ってばかりで、放っておくと何をしでかすかわからない奴なんだ、と錯覚させます。

一回「俺はルールの執行者なんやー!」と勘違いすると、映画esのように、執行者はより執行者っぽくふるまうようになっていくのです。

それで、「ルール守れ!」に人格攻撃がくっつきだしたりする。

「なんでいう事聞けないの!あんたはいつもそう!お母さん困らせて楽しいの?」とか。
「他の人間が働いてる中、お前だけ怠けてて恥ずかしくないのか?」とか。

 

そして、自分を相手より上に置けば置くほど、怯えは強くなります。

本当は、“下”の奴が自分の「偉いんだぞ!」に付き合ってくれていることをどこかで知っているのです。

“下”の奴がいつ「いい加減にしろや…?」と言い出すか、戦々恐々としてるのです。

“下”の奴に依存しているのです。

怯えが強くなれば、相手への攻撃も強くなります。

 

そういったことから、ルールはよほどうまく作りこまないと*5、いがみ合いしか生まないと思います。

世の中、それぞれの事情を考慮して、花も実もあるルール運用ができる人間ばかりではない。

なら、システムは誰が運用してもオッキューなものであったほうがいいと思います。

 

ルールは期待

ラッキーたちが選んだ集団の在り方が、どの程度の規模の集団でまで実現可能なのかはわかりません。

ただ、少なくとも友人関係、パートナーとの関係、家族関係など、個人的な関係の集団においてルールを作る必要はないと思います。
どのみち例外だらけ、事情だらけで一律適用できるものではないのだから、“聞く”、“言葉で伝える”という姿勢だけあれば事足りると思うのです。むしろそれしかない。

 

個人的な関係におけるルールというのは、「普通そうでしょ!」とか、「それが常識でしょ!」とか、「見たらわかるでしょ!」とか、「何回も言ってるでしょ!」とか…まぁ、有り体に言えば“期待”です。*6

というか、全ての明文化されていないルールは期待と言えますね。

 

期待は「あなたと私は同じ考えを持っているでしょう?だから言わなくてもわかるでしょう?」という勘違いに立脚しています。

そこに、“聞く”、“言葉で伝える”という姿勢が生まれる余地はありません。

言葉で伝えないまま何かを期待して、それが叶わなかった時に相手の意図を聞かないまま、「それはルールだろう!ルールを守れ!ルールを分かっているはずなのに*7破るのは何故だ!*8」と相手を責める。

ルールの目的は集団の和のはずです。所が、ルールにこだわるうちに、怯えから目的が自己防衛になっているのです。

自己防衛に基づいた“話し合い”には1ミリも建設性がありません。平行線の喧嘩別れです。

 

期待はそもそも誰のものか

期待というのは、本来的には子供がするものだと思います。

子どもは何か問題が起きたとき、それをうまく言葉で説明できないので、大人が問題に気付いて解決してくれることを期待する。

近しい、心を開いた大人に「気付いてよ、助けてよ。」と期待するのです。

 

所が、大人の側に子どもの期待に応えられない事情があった場合、子どもは期待が満たされず、“期待”の次の段階、“言葉で説明して協力を求める(自己解決)”へとたどり着くことができない。大人になっても“期待”以外の方法を知らないままです。

そして、子どもの頃のままで止まってしまった「自分は無力で何もできない子どもだ。」というセルフイメージが、問題の自己解決を阻む。

 

期待とは、子どもが、近しい、心を開いた大人にするものなのです。

だから、期待は「あなたと私は同じ考えを持っているでしょう?だから言わなくてもわかるでしょう?」という勘違いに立脚しているのです。

だから、期待が叶えられなかった時、理屈を飛び越えて「自分に価値がないからだ。」と結論してしまうのです。

期待する以外の方法を知らないから、子どもの頃のまま、人に期待しているのです。期待する以外の方法を知らないから、赤の他人にさえ「自分と同じ考えを持っている。」という前提で期待してしまうのです。

人との境界線が引けないというのは、すべての人との間に子供と親との関係性を適用しようとしている状態なのではないでしょうか。

 

集団の和とは

自由に自分の好きなことをしている状態というのは、子どもっぽいようでいて、実は成熟した状態と言えます。

キュウレンジャーのようなルール無用の集団は、まず一人一人が大人になっていて、期待を排して覚悟が決まってなくてはいけない。

それぞれが自分の足で立っていなければならない。

期待をしあって、期待が外れて互いに自己防衛をしていたのでは、集団に和は生まれないのです。

それぞれが大人になる。それぞれが自分のやり方で取り組みながら、同じ方向を向いている。それぞれがノーガードで忌憚なく話し合う。それが集団の和でしょう。

とても難しいことだとは思います。

だからこそ、それが成ったとき輝くのだと思います。

 

そう、キュウレンジャーのように!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

(おしまい)

 

 

(追記)

てかですね…。私がクドクド書いてきたようなことを、ものすごく簡潔に説明した言葉があるんすわ…。

やってみせ 言って聞かせて させてみせ ほめてやらねば 人は動かじ
話し合い 耳を傾け 承認し 任せてやらねば 人は育たず
やっている 姿を感謝で見守って 信頼せねば 人は実らず 

ハァァァァァァ…過不足ねェ~~~~~~~。

流石五十六。私(三十六)より二十多いだけのことはある。

 

▼割と力技で無理やりまとめた感。

*1:3歳児に「走り回るな!」というルールを完璧に守らせることはおそらく無理でしょう。

*2:前者をI(アイ)メッセージ、後者をYOU(ユー)メッセージと言います。意見が食い違ったとき、前者を使って話し合うと比較的スムーズです。後者を使って話し合うと(話し合いになればですが)大概殺し合いです。

*3:逆に言えば、卑怯なことをしている人には、“怯えて自分を守ろうとしている”という事情があるということです。

*4:たとえ親子関係であっても、上下関係を意識しないほうがうまくいきます。子どもとは言え一人の人間です。上から押さえつけられて反発する気持ちに大人も子供もありません。「誰が金を出すと思ってるんだ!」式に自分の希望をはねのけられて「そっかー!ごめんなさい!親の気持ちも考えずに!」ってなる子どもはいません。

*5:ルールもその適用範囲も明文化して恣意性(=運用側の八つ当たり)が入り込む余地をあらかじめつぶしておくとか

*6:期待については“人に期待していない”とは寂しい態度か? ー期待と覚悟はトレードオフー - gentle avenger の冒険でクドクド説明しています。

*7:※勘違い

*8:俺には価値がないからなんかい?なぁ、俺には価値がないからなんかい?なぁ、俺には…エンドレス