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gentle avenger の冒険

キュウレンジャーの感想を心の話を軸に書いてます!セイ!ザ!チェンジ!!!!

ACは“自己肯定感”を獲得しなければならないのか?

えー。三十六です。
ここ最近考えていたことに一応の結論がでたのでまとめたいと思います。
私は思考を文章に落とし込むことが苦手なので、ウンウン唸って考えながら書いた今回のエントリはいつもと文体が違いますけど、読んでね♡

 

■私の中の荒れ野■

私が、親との関係のいびつさに気付いたのは大学に入学したばかりの頃だった。

 

“AC(アダルトチルドレン)”とか“毒親”とか“自己肯定感”とか“境界線”とか、そういう概念も何もない所から、“生きづらさ”を抱えつつ五里霧中で自分と向き合い続けた。

何かを一つ克服したと思ったらすぐまた次の“直すべき自分の欠点”が見つかる。いたちごっこだ。

向き合っても向き合っても報われない。

 

物心ついた時には既に荒らし尽くされていた果てしない荒れ野を耕しているかのような感覚だった。

そして、恐らく、私は一生この荒れ野を開墾し尽くすことはできないだろうと思っていた。

それでも、開墾し尽くさねばならないと思っていた。

 

■ACは変わらねばならないのか■

先日、Twitterを通して知り合った友達とDMで会話した。

親との関係に苦しみ、その苦しみを乗り越えようとしている同志だ。

友達との話の中で、私は「毒親に育てられた人間の一応の“あがり”は、自分自身を生きられるようになる事だと思う」と言った。

自分自身を生きた所で、悩みや迷いから完全に自由になれる訳ではない。だから、“あがり”ではない。しかし、自分自身を生きていない状態より圧倒的に楽だ。私は、生い立ちで苦しんできた人間には楽になって欲しいと心から思っていた。だから、一応の“あがり”と表現した。

でも、自分の発した言葉にずっと引っかかっていた。

 

“あが”ってない人は変わらないといけないのか?楽になるため、より幸せになるため、変わらなくてはいけないのか?

私は友達に楽になれるだけ楽になって欲しい。でも、私は今のままの彼女が今のままで好きなのだ。大好きだ。変わっても変わらなくても大好きなんだ。

 

私は開墾しつくさねばならない、と愚直に自分の中の荒れ野を耕していたけれど、必要なのは荒れ野を耕すことではなかった。それはきりがない上に、「自分は変わらねばならない人間だ」という強烈な自己否定に基づいている。

私に必要だったのは、野を荒らした竜巻への憎しみを手放し、荒れ野で構わない、と心から思う事だった。そう思えた瞬間に、一生終わらないと思っていた私の開墾は終わった。

 

永遠に達成できないと思い込んでいた荒れ野の開墾は、「そもそもする必要がない」ということに気付いた瞬間に終わるものだった。正直「そんな裏技みたいなクリア条件があるか、難易度設定見直してこい」という気持ちだ。

そして、「この裏技みたいなクリア条件を共有して、意地の悪いゲームに翻弄されている同志の役に立ちたい」と思った。

 

でも、やっぱりそれは違っていた。


■“自己肯定感”を得るという目標設定■

自分自身を生きる、という感覚が腑に落ちた私は、派生的に色々な概念も腑に落ちていることに気付いた。

 

「さんざん理解しようとしても理解しきれなかった“自己肯定感”や“境界線”、“自己受容”、“自己効力感”、“アサーティブ”…等々とはこういう事だったのか」と、今の自分の内面の在り方を眺めることで理解した。

“自己肯定感”や“境界線”というものは、努力で理解して手に入れるものではなく、ものすごく楽な状態になった結果、発生するものだということが分かった。*1

“自己肯定感”や“境界線”というものは、段階的に手に入れていくものではなく、心の在り方が抜本的に変わった結果、発生するものだったのだ。*2

 

私が理解しようとして理解できなかった概念の数々は、一つ一つ別々の状態を指しているのではなく、ものすごく単純な心の在り方を、色々な角度から説明したものに過ぎなかった。全て同じ心の状態を説明したものだったのだ。

そして、そのものすごく単純な心の在り方は、メンタルヘルスの領域だけではなく、様々な創作物やビジネスマインド、自己啓発、スピリチュアル、宗教…等、ありとあらゆる領域で説明されているのだった。*3語る言葉は違えど、驚く程みんな同じ事を言っている。

 

■ “自己肯定感”とはみんな当たり前にもっているものなのか?■

自分自身を生きるようになると、自分自身を生きている人間が分かるようになる。

そこで私は再び驚いた。

「周りにそんな人間誰もおらへんやんけ」ということである。(※ 除くネット)

 

私が33年間生きてきて出会った人間の中で「あの人は自分自身を生きていた」と思い当たるのは一人。「多分自分自身を生きてただろう」まで含めて二人だ。

私が出会ってきた人間の数が相場より少な目だと仮定しても(引きこもってた時期もある)、なかなかのレア度である。

 

…あれれ~?

 

傷付いたACが回復する過程で身につけるべき“自己肯定感”や“境界線”は、“普通”の人はみな身に付けている思考形態ではなかったのか?

それを理解して、それを人間関係の中で使いこなしてやっと“一人前”、やっと“マトモ”、やっと“普通”…ではなかったのか?

“普通”に見える、“普通じゃない”自分とは違う、自信に満ちて、何の悩みも持たず輝いているように見えていた他人は、“自己肯定感”や“境界線”という作法を身に付けているのではなかったのか?

 

私が勝手に見上げていた“私以外の普通の人”は、“自己肯定感”や“境界線”など持っていない、私と同じ苦しみを抱えた人間だったのだ。

 

“自己肯定感”や“境界線”を持った人間、自分自身を生きている人間は、大概“何者か”になっているので身の周りにいない。(“何者か”になっている=夢を叶えて、自分のフィールドでバリバリやってる。)

そして、自分自身を生きてる人間は、大概自分自身を生きてる人間と付き合うので、ますますエンカウント率が下がる。(自分自身を生きてる人間は、自分自身を生きてない人間と話が合わない。)

稀にエンカウントしたとしても「あの人はエネルギッシュで人とはちょっと違うなー。憧れるけどなりたいとは思わないかなー(あんな風になって人からこんな風に思われたくないし)」みたいな感じになるので、まさかその人の在り方が“自己肯定感”や“境界線”を実現したものとはゆめゆめ思わない。

 

つまり、“みんなもってるはず”の“自己肯定感”や“境界線”を獲得しようにも、そのロールモデルとなる人間が身の周りにいなかったのだ。

にも関わらず、私は身の周りの人間全員がロールモデルだとどこかで思い込んでいた。ロールモデルを完全に見誤っていた。

 “自己肯定感”や“境界線”を身に付けている人間というのは、なかなかいるものではなかったのだ。

 

多くの人は、ACだろうがそうでなかろうが「“自己肯定感”や“境界線”?何それ?」状態で、弱い自分を抱えながら、なんとかかんとかやっているのだった。*4

 

■精神的な資本を持った階層・持たない階層■

ACを支援する立場にいて、かつ有効な支援を続けられている人というのは、まぁ大概自分自身を生きてる。

そして、自分自身を生きてる人間の周りには自分自身を生きている人間が集まっている。

ACが負の連鎖で生まれるとすれば、自分自身を生きてる人間は正の連鎖で生まれると言っていいだろう。中途覚醒する人間もいる。*5

 

なんで、多分だけど、ACに向けて「自己肯定感を身につけよう。境界線を引けるようになろう。そうすれば楽になるよ!」と応援してくれている人は、己の特異性に無自覚な所があるのではないか。

自分自身を生きている人間の周りには当たり前にいる“普通の人”は、ACの周りにはほぼ存在しない“超人”なのだ。この認識の齟齬から、私の「“自己肯定感”や“境界線”は“普通”身に付けているもの。身に付けていて当たり前のもの」という勘違いは生まれたのではないだろうか。

ACの環境では、自分自身を生きている人間を目にする機会自体がほぼ0なのだ。自分自身を生きている人間の特徴を聞いても「あぁ、あの人みたいな感じね」とならない。「未知なる生物の話を聞いているようだけども、それは周りの人間皆が持っている性質らしい…。そうは見えないが、そうらしい…。」と混乱する。

 

私は、ロールモデル不在の環境で、ロールモデル選定を誤ったまま、延々と「“自己肯定感”とは…“境界線”を引くとは…」と頭を悩ませていたのだった。*6


■難易度の高すぎる目標設定■

だから、ACに「“自己肯定感”や“境界線”を身に付けたら楽になるで!」というのは、大きく見れば確かにその通りではあるけど、少し一足飛び過ぎるのではないか。

 

「絵がものすごく不得手だけど、漫画を描きたい!」と思って『漫画の描き方』という本を手に取ったら「出版社に持ち込みましょう、プロになれます」と書いてあるようなものだ。

まずは「絵が描けるようになりましょう」な訳で。その後「漫画が描けるようになりましょう」な訳で。漫画を描けるようになって、プロを目指すなら「その意気やよし、やれ」って話な訳で。

漫画を楽しんで描いてるのなら、プロにならなくてはいけない訳ではない。WEB漫画としてネットで発表することや、同人誌を発行して即売会で売ることが、プロとして漫画を描くことに劣るわけではない。
そこに優劣はない。本人がどうしたいのか、という違いがあるだけだ。

 

ACもそれと同じで、みんながみんな“自己肯定感”や“境界線”を獲得しなくてはいけない訳ではないのではないか。

 

あまりに生きづらい要素(依存症など)が小さくなってきて、人との関わりの中で生きていけるようになった。たまに自己嫌悪で落ち込んでしまうけど、気付けば最近よく笑っている。

ACがそこまでくるのにどれ程の努力と苦労と挫折と絶望を要するだろうか。“自己肯定感”や“境界線”は得ていない。でも、素晴らしい。


そもそも依存症だって当人(の精神機序)が必死で生きようとした結果だ。それがあるから生きてこられたのだ。何かに依存しているという事は、辛い現実があっても生きようと必死に戦ってきたということなのだ。

本人は意識の上では行き辛さを抱えているかもしれない。しかし、現状におけるベストをつくしているのだ。それもまた、素晴らしい。

 

“自己肯定感”や“境界線”を獲得する。それは素晴らしいことだ。そして、それらを獲得していない人間もみな同じように素晴らしい。変わらなくてはいけない人間なんて、一人もいなかったのだ。

どの在り方がよくて、どの在り方が悪いという話ではなかったのだ。

 

「自分はどうありたいか」だけだ。「今の自分はもう既に素晴らしい。それでもやはり自分自身を生きたい」というのなら「その意気やよし。やれ」って話だ。

 

自分自身を生きるようになるには、自分の弱さと向き合う必要がある。

その恐怖(速攻で脳がそれをしなくていい“合理的な理由”を吐き出すレベルの恐怖。恐怖していることを自覚する事さえ難しい恐怖。)を乗り越えるデメリットよりも「よりよい自分を生きたい」という思いが強ければやればいいし、「やっぱ怖いから無理」というのならやらなければいい。

やってもやらなくても素晴らしいのだから、好きな方を選べばいいのだ。

 

そして、どちらを選んだとしても、それがその人のベスト(幸せ)なのだ。*7


■“癒しの途上”にある人への配慮は必要か?■

私はネットで“許し”について発言するとき「今はまだ“許し”どころではない人を傷付けるのではないか」という不安があった。

 

私の「許そう!!!!!!!」という言説で誰かが傷つくことを心配していた。過去の私が「憎い相手は許すしかない」という言説や「トラウマは存在しない」という言説に傷付いたように。

しかし、私には同時に「でもそれってなんかちょっと失礼な考え方なんでは…?」という思いもあった。


私が“回復”の糸口を見つけたくて先達のblogを必死で読んでいた頃、あるblogで「〇〇の話は聞きたい人もたくさんいるんだけど、それを書いたらまだ傷つく段階の人も沢山いるから簡単には書けない」と書かれているのを目にした。

私は「気遣ってくれるのはありがたい。けど…」と複雑な気分だった。

それを今の自分に必要か必要でないかを決められるのは私だけだ。勝手に自分の“回復具合”を計られて「あなたにはまだ早い、あなたにはまだ無理」と決めつけられるのは何かが違う、と感じた。

 

■人の“トラウマ”は私が避けてあげなくてはならないものなのか?■

「『トラウマは存在しない』という考えがトラウマの再演となる」という考えについても同じだ。

 

本来的にトラウマとは、命に係わる体験によって引き起こされるものだが、一般に、そこまでの体験によるものではない心の傷もトラウマと称されている。

自己肯定感が極端に低いと、自分で自分の辛さを認めることができない。命に係わらない体験による心の傷をトラウマと称するのは、辛さを自分で認めきれない分、それを先鋭化した言葉で補いたいという心の現れだろう。

命に係わらない体験による心の傷をここではカッコつきで“トラウマ”と表現することにする。

 

もちろん“トラウマ”はないに越したことはない。*8

が、“トラウマ”は人が生きるための機序なのだ。“トラウマ”があることで、自分が傷つくであろう出来事・人・場所から距離を置くことができる。

“トラウマ”はその人(の精神機序)が生きるために作り出した盾なのだ。

一番避けるべきこと(精神的/肉体的 死)は“トラウマ”によって避けられている。

“トラウマ”は生きるための手段であって、それを避けることが目的ではないのだ。

 

■人を信じるという事■

“未だ回復の途上にある”“傷の癒えきっていない”人間にも、自分で衝撃を処理する能力がある。

それは、意識のレベルの話だけではない。無意識的な反応も含め、生きていく力があるということだ。

今の自分にとって有害な意見・不要な意見に触れたとき、「この意見は間違っている」と耳をふさいででも自分の心を守る機序が人間には備わっている。*9そして、事実、今のその人にとってその意見は間違っている。

この先、その人のその意見に対する評価は変わるかもしれない、変わらないかもしれない。どっちでもいい。

 

全員が数直線のように決まった“回復の道”を歩いているわけではないのだ。“先達”も“未だ道半ばの人”もいないのだ。

自分が「遥か後方を歩いている」と思い込んでいる人がひょんな所から自分の立っている所にやってきたりするかもしれないし、ふと気づくと斜め上空にいるかもしれない。その座標に価値や意味はない。

 

何が“正解”で、何が“間違い”というわけではないのだ。全部“正解”なのだ。


自分の出した結論はすべて提示する。その要不要を選別するのは見る人に任せる。見た人の、自分で衝撃を処理する能力を信じる。そして、その人の出した結論が自分と違っていても尊重する。*10
それが、相手が自分とは別の一個の人間であることを認めることであり、相手が自分とは違う考えを持っていることを認めるということであり、相手の事を尊重するということだろう。

 

「今はまだ“許し”どころではない人を傷付けるのではないか」と、“人の事を心配していた”私は、単に自分の“正解”とは別の“正解”を尊重するだけの心の準備ができていなかっただけだったのだ。

よ・け・い・な・お・せ・わ ♡ ( ^o^)σ ツンッ♡

 

余計なお世話焼いてないで、(自分も含め)みんな好きにしろ!ってことだったのだ。

 

■“人と比べる”に潜む毒■

自分とは別の“正解”を尊重できないのは、人と自分とを比べているからだ。

比べると、上下が生まれる。

比べるとは、どちらかを否定してどちらかを肯定する、という事だ。どちらかしか“正解”にならない。“正解”じゃなかったほうは“間違い”だ。

 

比較によってでてくる「あの人はすごい!」は、その後に「それに比べて私は…」がっついてくる。それは、自分を否定して相手を肯定しているということだ。

自分を否定することでしか相手を肯定できない人間は、自分を肯定する時に誰かの否定を必要とする。

私の“正解”が成立するためには、“間違った”誰かが必要なのだ。

 

人と自分を比較しているうちは、「みんな“正解”」という意識にはなれない。

人と自分を比較している限り、“正解”を得ることができるのは、自分か相手のどちらかだけなのだから。

 

誰かを否定して得られる自己肯定はお手軽だ。手軽に得られる自己肯定は魅惑的だ。しかし、それは甘美な毒だ。

その毒に侵されている限り、自分以外の人間は全員、“正解”をめぐって戦うあなたの敵であり続ける。その毒に侵されている限り、人と繋がることはできないのだ。

 

そもそも、自分よりすごい人間だけがすごくて、自分よりすごくない人間はすごくないのか?それはあまりに傲慢なものの見方だろう。自分がどんだけのもんだというのだ。なんですごいかすごくないかの指標が全部自分なんだ。

自分と比べてどうこうではない。みんなすごいのだ。

 

■結論■

みんな違ってみんないい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

みんな違ってみんないい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

(おしまい)

 

ー追記ー

このエントリの内容をまとめた?ツイート貼っときます。

  

( ^o^)σ ツンッ♡

*1:逆に言えば、それを突破口にして、ものすごく楽な状態に行き着く事も可能なのかもしれないが。

*2:“自己肯定感”や“境界線”で何を表したいかにもよるけど。自分自身を生きる、という状態は、自分自身を生きてる/自分自身を生きてないの二択しかない。“割と自分自身を生きてる”という状態はない。こればっかりは0か100だ。

*3:スピリチュアルとかは毛嫌いしてたので詳しくないけど。今ちらちら読んでみる限り、同じことについて語っている。

*4:それに気づくと同時に「何の問題もないように見えても、意外とみんな親との確執に悩んでるんだな。」という実感も持った。

*5:私が特撮好きなのは、その中途覚醒をデフォルメした話が特撮に多いからだ。(もちろんアクションとかデザインとか他の要素も好きだけども。)特撮に限らず、熱い展開というのは中途覚醒を描いている。

*6:ちなみに、ロールモデルがゴロゴロいる場所がある。漫画やアニメなどの創作物の中だ。主人公は自分自身を生きているキャラクターとして描かれる事が多い。キュウレンジャーのラッキーは明確に“それ”として描かれている。

*7:当人が「自分は不幸だ…最悪だ…」と思っていたとしても。

*8:ちなみに今の私は「自分に“トラウマ”はない」というスタンスで生きているが、それは「私に“トラウマ”はある」と考えて生きる人間の“トラウマ”の存在を否定するものでも、その人の辛さを否定するものでもない。

*9:今の自分にとって有害な意見・不要な意見に対して脳が即座に“この意見を拒否する合理的な理由”を吐き出すのは自分を守るためだ。逆に言うと「毒親問題は親を許したら終わるよ!」と言われて「毒親を許せかぁ…ふーんなるほどねぇ…。まぁ、絶対許せないけどね…。」位のテンションで聞ける人は、心の中では許す準備が整ってるってことだ。あとは、自分がどうするのか、どうしたいのかを決めるだけです。

*10:ちなみに、たとえば、「お前の意見は間違っている。有害だから取り下げろ」という意見を受け入れることが相手の意見を尊重するということではない。相手の意見を尊重するとは「なるほど、今のあなたはそういう結論なんだね」と違いを認めて、それを否定も肯定もしないことだ。