gentle avenger の冒険

キュウレンジャーの感想を心の話を軸に書いてます!セイ!ザ!チェンジ!!!!

キュウレンジャー第11話「宇宙を救う3つのキュータマ」感想・2 -“力に溺れる”とは-

どもーーーーーーッッッ!!!!!!三十六ですーーーーーーッッッ!!!!!

 

夜なべして書いた考察エントリが第12話に爆殺されましたね!!!!(ラッキーがドン・アルマゲ=ラッキーパパって気付いている可能性はほぼ消えました)

感情先行で断定しちまうから俺ァ考察向いてねぇんだよ!!!!!知ってた!!!!!!

でも、私、何があってもドン・アルマゲがラッキーパパって信じてる…!!!!信じてるから…!!!!!!!だってそういう展開が見たいんだもん…!!!!!、(最早考察でもなんでもない)

 

“力に溺れる”とは?

さて。第11話は、ラッキーの過去が初めて明かされた一方で、「“力に溺れる”とは何か?」という小テーマが語られました。

 漫画やアニメではよく聞く“力に溺れる”という状態とはどんな状態なのでしょうか?

 

“力に溺れ” かける小太郎

ビッグベア総司令の協力を得て、キュウレンジャーに覚醒したばかりか、巨大化能力まで手に入れた小太郎。

戦う力を得た小太郎が、これまでは石を投げるか逃げるかしかできなかった「ギョイサー!」どもを蹴散らすことに快感を覚えるのは無理もない事です。新しく得た“力”の威力を確かめるかのように、ノリッノリでインダベーをやっつけるのであります。

 

そんな小太郎にスティンガーは、力に溺れて闇落ちした兄・スコルピオの話をします。そして「弟が誇れる兄でいろ!そうすれば、お前が力に溺れることはない…」と諭すのでした。

 

さぁ、何故、弟が誇れる兄でいることと、力に溺れないということが繋がってくるのでしょうか?

分かるような…そこんとこだがおれにもようわからんような…。

 

それを説明するために、まず、力とは何か?について説明しましょう。

それには、“自信”が深く関わってきます。

 

自信には二種類ある

自信には二種類あります。そして、それらは全く性質の違うものです。

全く性質の違う二つの姿勢が、自信という一つの言葉で表されているのです。

 

その二つとは

“根拠のある自信”“根拠のない自信”

です。

 

根拠のある自信とは「自分は〇〇があるから(=根拠)すごい」という、自分に対する価値判断です。

〇〇に入るのはなんでもいいです。

肩書、学歴、知識、容姿、技能、地位、財産、年収、実績、経験、年齢…。

人と比べられるものなら、なんでもいいです。

 

根拠のない自信とは「自分はできる(根拠はない)」という、自分に対する信頼です。

根拠はありません。ただ、そう信じているだけです。

 

“根拠のある自信”の根拠とは

“根拠のある自信”の根拠は、何のために必要なのでしょうか?

 

人の目から、自分を守るために必要なのです。

 

「俺ってすごいぞ!」と思っているときに、他人から「いや、すごくねーじゃん」と言われると死ぬので、先回りして「いや、本当にすごいよ?本当にすごいからね?」と言っておく。それが“根拠”です。

 

根拠はどうすれば根拠足りえるのでしょうか?

それは「すごくねーじゃん」と言ってきた奴よりすごけりゃ根拠足りえるのです。

「お前よりすごい〇〇持ってますが何か?」で相手を黙らせられたら根拠としては及第点なわけです。

 

“根拠のある自信”の“根拠”は、他人との比較の上になりたっているのです。

 

だから、根拠のある自信は、自分よりすごい〇〇を持っている奴が現れた瞬間折れます。 

ええ、ええ、それはもういとも簡単にポキーーーーーって折れます。

「いや、あいつの〇〇は大したことない!」とか「〇〇なんて持ってても意味ない!(急にダブスタ)」とか「いくら〇〇持ってても××がないなんて、人として寂しいよね…(澄んだ目)」とか言ってみたところでもう折れてます。残念ですが、骨まで逝ってます。私も何度骨まで逝ったことでしょうか。 

 

 

“根拠のある自信”とは、人と自分を比べて、自分が勝っていた場合にのみ手に入る“自信”です。

その自信が手に入るのは、対戦相手によります。対戦相手次第で折れます。対戦相手依存型の自信です。

 

そして、俺より強い奴は、わざわざこちらから会いに行かなくともその辺にゴロゴロしています。インターネッツなどしようものなら、そこはもうナメック星。

「おいおい…この人ったら、〇〇も××も△△も俺よりすごいやんけ!!!!!天から何物与えられとんねん!!!!!」みたいなバケモノがゴロゴロしてる訳です。

 

 「正攻法じゃとても太刀打ちできんぞ」ということで、“意外性”で戦ってみるのもいいでしょう。「自分って○○に見えるけど、意外と××なんです。」と、性質の離れた二つの要素を合体させることで戦う相手のいないニッチにダッシュで逃げ込むという最終奥義です。

安心してください。逃げ込んだ先のニッチにも俺より強い奴がいて、キッチリ殺してくれます。

 

逃げ場はねぇのであります。

複雑骨折からの死亡、待ったなし。

それを避けようとしたら、根拠の底上げのために努力!もしくは他人を否定!もしくは見ないフリ!しかないのです。*1

そして、つえぇ奴らには決して、努力では追い付けないのです。

 

根拠のある自信=オプションへの自信

根拠のある自信の“根拠”は人と比べられるものでなくてはいけません。
肩書、学歴、知識、容姿、技能、地位、財産、年収、実績、経験、年齢…。

しかし、これらの要素は全て、自分という存在におけるオプションなのです。

“自分自身”という自分の核を取り巻くオプションなのです。

自分=自分自身+オプション

なのです。

 

つまり、

根拠のある自信 = オプションへの自信

根拠のない自信 = 自分自身への自信

ということです。

 

オプションは比べられますが、自分自身は比べようがありません。「あの人より私の方が私だから偉い!」とか、無理な訳です。みんな違ってみんないいの世界。

だから、自分自身は根拠なく信じるしかないのです。

 

オプションへの自信をいくら積み重ねても、自分自身への自信には繋がりません。

自分自身への自信とは、“根拠なく信じる”必要があるものであり、根拠なしには成立し得ないオプションへの自信とは、そもそも相容れないものなのです。

 

そのくせ、オプションへの自信喪失は、自分自身への自信喪失になり得ます。(=骨まで逝く)

だからこそ、「オプション=自分の価値であり、オプションへの自信=自分への自信」と思ってしまいがちなんですね。*2

 

どのオプションが自分自身の価値と結びつきやすいかは人それぞれです。“異性とのコミュニケーション能力”というオプションと自分自身の価値を同一視して自信喪失…なんかはあるあるな例でしょう。

ネットで頻繁に勃発する独身vs既婚の戦いや、子持ちvs子無しの役、なんかもオプション同士の戦いですね。

 

結構戦えちゃうオプションを持っている人もいるでしょう。地元じゃ負け知らずかもしれません。

 

しかし、残念なことに、「俺はお前に勝てるオプションを持っているんだぞ」という形の自信は、どこか人を見下した雰囲気をまとってしまうのです。

その人を見下した雰囲気がかもし出す逆説的な小物感!!!!!!他人に怯えてる感!!!!!!!器ちっさい感!!!!!!!は、他人からは悲しい程に丸見えなのです。

 

そして、今度は誰かに負けるかもしれない、という恐怖を抱えてオプションを磨く努力を続けるのです。

 勝っても努力、負けても努力。

根拠のある自信、オプションへの自信は、勝っても負けても地獄なのです。

 

力に溺れるとは、弟が誇れる兄とは

さぁ、もう分かりますね。

“力に溺れる”とは、自分自身への自信を持てずに、オプションへの自信を肥大化させてしまった状態を言うのです。

はっきり言って、力に溺れていない人間を探す方が難しいくらい、ありふれた状態です。

 

スティンガーが小太郎に言った「弟が誇れる兄でいろ!」という言葉。これは、小太郎に自分自身への自信・誇りを意識させる為のものだったのです。*3

 

自分自身への自信は、自らの正しい行いに支えられます。何を持って“正しい”とするかは人それぞれですが、例えば、人殺しをする自分の自分自身を信じることのできる人はいないでしょう。

“正しくない”と感じることをする事は、自分を諦めるということです。

お天道様に恥じる所ァねェ!!!!という行いの積み重ねが、自分を尊敬できる行いの積み重ねが、自分自身への信頼・自分自身への自信へのきざはしとなるのです。*4

 

そして、自分自身への自信を身につけた人間が力に溺れる(=オプションへの自信に依存する)ことはないのです。

 

力に対する自信を肥大化させて、自分と人とを比べるようになってしまえば、他人は全て、力の強さを巡って戦う敵になります。

自分より力のある人間は、自分の価値を損なう敵であり、自分より力のない人間は、自分の価値を確かめるためのコマであり、自分の価値を脅かし得る敵である。

力は、自分自身への自信を補うための手段だったはずのに、いつの間にか力を比べることそれ自体が目的となってしまうのです。自分の力を人と比べて勝つことが目的となってしまう。

それが、力に溺れるということです。

 

スコルピオは、自分の得た力に溺れて闇に落ちた。力は得たけれども、核となる自分自身への自信がなかった為に、力の持つ魅力(まやかしの自信を与えてくれる)に取り憑かれてしまったのです!!!知らんけど。

 

オプションの価値はおまけ

「じゃあ、弊害だらけのオプションは無駄なのかよ?」ですよね。

 

いや、無駄じゃないんです。

無駄じゃないけどしかし、オプションの価値を高めるのは自己満足で終わらせなくてはいけない。オプションの価値を高める事を目的としてはいけないのです。

 

それは、以前のエントリで書いた“過程を楽しむ”という姿勢の話に繋がってきます。

過程を楽しむ人間が結局、努力では到達し得ない高みまで登るのです。しかし、その高みという結果はおまけなのです。

オプションの価値を高めるという結果を求めて努力して、オプションの価値を人と比べたら、終わりです。絶賛溺れかけてます。てかもう溺れてます。溺死寸前です。*5

 

逆に言えば、人と比べて勝つ為にしていることは、自分が本当にしたい事ではない、という事ですね。*6

どんだけ「いや!好きでやってる!!」と思っても、それを人と比べているのなら、それはやわらかい自分自身を守る為の鎧です。

自分自身がダイヤモンドのように輝けば!!!!硬く輝くダイヤモンドのような自分自身を抱いていれば、本当にしたい事をする事ができるのです。

 

自分自身への自信が持てれば、ノーガードでノーダメージなのです。

自分自身は比べようがないのだから、自分自身への自信は折れないのです。自分自身を守るためのガードなんて、自分自身への自信があるなら、いらないのです。

自分自身に自信がある人間を、誰も傷つけることはできないのです。*7

 

ノーガードでノーダメージなら、人と自分を比べる必要もない。

ノーガードでノーダメージなら、自分を守る為に人を否定する必要もない。

自分を守る必要がないのなら、オプションの価値を高める作業も不要なわけで、あとはもう好きな事をするしかないのです。

 

それが、自分自身を生きるということです。

 

自分が溺れている力は何か

あなたはどんな“力”に溺れているだろう?

その力は、あなたを守る鎧かもしれない。

でも、その鎧は自由に空を飛び回るには重すぎる。

 

鎧は脱げ!!!!!!

そして、降り注ぐ流星群に乗り、飛べ 飛べ 飛べ 飛べ!!!!!!!!

飛ぶんだ!!!!!!!!!

(おしまい)

*1:努力は“善”ではないのか?については過去記事でクドクド書いてます。

*2:承認欲求に感しても同じことが言えるのではないでしょうか。承認欲求を持つ人間が承認されたいのは自分自身でしょう。しかし、オプション=自分だと思っていれば、他人に提示できるのはオプションのみ。オプションがいくら承認されても、承認欲求は満たされないままです。

*3:「自分が誇れる自分でいろ!」ではない所に、スティンガーの兄・スコルピオへの思いが滲んでいます。スコ兄!!!スティンガーの気持ちも考えてあげて!!!!

*4:しかし、最終的には“根拠なく信じる”というハードルを飛ぶ必要はある。

*5:以前のエントリで書いた「上下関係の世界に自己肯定感は芽生えない」ってのは、そういうことです。

自己肯定感ってのは、自分自身に対する自信とほぼ同義です。

オプションへの自信が、上下関係の世界を目の前に作り出すとすれば、自分自身への自信は、横並びの世界を目の前に作り出します。どちらもあなたの意識が作り出す幻です。ならば、敵だらけの幻より、幸せな幻を見ようじゃないか、という話です。

*6:受験やスポーツなど、目標を達成するためには人と比べざるを得ないものもありますが。比べた結果を自信にしちゃったらアウツ。

*7:自分を傷付けられるのは自分だけです。人から何か言われて傷付くのは、自分も密かに同じ事を思って自分を責めている時だけです。自分自身を認めて信頼できるのなら、自分自身を責めずに許せるのなら、人の言動で傷付くことはないのです。